2010/07
サイキックな能力よりすごいこと

先日、森の中で雉の夫婦に会いました。今頃は雛が生まれているかもしれません。

先日、ある方から電話をいただきました。サイキックな能力に憧れがあるようで、「どうしたらその能力を開花させることができるのでしょうか」というものでした。しかし、人はどうしてサイキックな能力が欲しいのでしょう。

「そんな特殊な能力があれば、現実をもっと楽に生きられるかもしれない」というのは単なる幻想です。私の周囲にはサイキックな能力を持って生れた方が何人かいらっしゃいます。能力を持つということは、それだけ大変なことでもあり、責任もまた伴います。

日本の中世でも、ある上人は空を飛んだとか、額から光を出していたという評判を聞くと、人々は「なんとありがたい上人だろう」とその上人に群がったといいます。

しかし、人の進化とサイキックな能力は比例しません。ヴェーダンタでは「サイキックのまま、高次の精神性に目覚めないまま死んだら、何度生まれ変わっても進化することは不可能である」としています。怖い話ですが、進化とは『エゴを手放す』ためのプロセスなので、サイキックな能力に頼ることはむしろエゴを助長させる可能性があるからだろうと思います。

人が人生を真に、そしてほんとうの豊かさを生きるためにそんな能力が必要かといえば、答えは「ノー」です。クリシュナムルティの好きなジョークにこんな話があります。

『インドのある青年がサイキック能力に憧れ、すごい能力者だと評判のマスターに弟子入りをした。しかし、一年たっても二年たってもそのマスターはなにひとつすごい技も見せず、ましてや超能力について何も教えてくれなかった。青年はしびれをきらし、別のマスターのところへ行ってしまった。数年後、その青年はもとのマスターのところへ戻ってきてこう言った。「私はすごい技を身につけました。水の上を歩くことができるようになったのです」マスターはすぐさま聞き返した。「それでそのために何年かかったんだ」そこで青年は「まる二年かかりました」と自慢げに答えた。するとマスターは溜息をついて言った。「そんなことのために二年も費やしたのか。そこにある舟に乗れば、すぐに水の上を渡れたものを・・・」』

実はサイキックな能力を手に入れるよりすごいことがあります。現実を、自分に起きていることを直視し、自らの内なる洞察と探求とによってエゴの存在に気づき、それを手放していくことです。これこそが誰にでも平等に与えられた能力であり、『人生という時間』を与えられた意味だろうと思います。『エゴ』という恐怖を生みだす元凶を手放すことができたとき、いったい私たちに何が起きるのか、見てみたいとは思いませんか?

覚醒したとき私たちが見るであろう、体験するであろう世界については『華厳経』の中に書かれています。機会があったら一度『華厳経』をのぞいてみてください。

2010/07/06 高瀬千図拝

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