2010/08
あなたにとっての幸福とは?

東京はまだ猛暑が続いていることと思いますが、ここ八ヶ岳は朝夕めっきり風が冷たくなり、一足早い秋の訪れを告げています。

先日のこと、いろいろな問題を抱えているあるクライアントの方が「これからどうしたいのですか」という私の質問にこう答えました。

「私は幸福になりたいのです」と。

たしかにこれは誰しも望むことかもしれません。でも、そこで足を止めて、『幸福』とはいったい具体的には何を指すのか考えてみることにしました。「これこそがまさに幸福だ」と言えるものが果たしてあるのかどうか。

「あなたにとって幸福とはどんなことですか?」と質問したら、答えはきっと千差万別でしょう。しかし、欲しいもののすべてが手に入ったからといって、人は幸福とは限りません。依然として不満を持ち続ける人もいます。

幸福だ、と感じる瞬間は誰にでもあると思います。しかし、皮肉なことにその幸福な瞬間をこれからも維持したいとか、壊されたくないとか、もう一度体験したいとか、なんらかの形で私たちが幸福を求め始めたとき、たちまち消え失せてしまうのが、『幸福』でもあります。そこには『願望—今、ないものを持ちたいと願うこと』があるだけで、もはや幸福はそこにありません。

ということは、幸福とは状況を指すのではなく、どうやら私たちがその時、その瞬間、知覚できる何かなのではないかということになります。それを知覚できるかどうか、それが幸福についての鍵ではないかと思います。

破産し、友人たちも離れてしまい、孤独と貧困に陥った人が、ある朝、野の一輪の花の美しさに気づき、そして自分もまた何者かに生かされているのだと気付いた瞬間、『命』というものにただ感謝する瞬間、そこには『幸福』があります。(感謝と幸福とはつねに表裏をなす一枚のコインのようなものだと思います)

アウシュヴィッツを生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルはその著書のなかで『人はもっと苦しみの価値に気付くべきである』と言っています。確かに『苦しみの価値』には『幸福の価値』よりずっと大きなものがあります。苦しみから逃げず、なぜ自分は苦しいのか、自分自身と向き合って苦しみをもたらしている原因を探求してみる・・・。そこにこそ私たちが小さなエゴから抜け出し、さらに意識を広げ、大いなる喜びにいたる道が隠されているのではないかと思います。

自分自身のことを振り返って思います。恵まれた何不自由ない人生を与えられていたら、私のような者は何一つ他人の痛みや苦しみに思いをいたすことができなかったのではないか、と。時に自分のその時の状況や生活を守ろうとして、いつしかエゴの罠に落ちていたこともありました。守りに入るということは、失うことを恐れることと同じですから。

プライドが傷つくことを恐れ、失うことを恐れ、小さなエゴを抱えながら、「私は幸福になりたい」と願う、私たち人間はなんだかとても滑稽な生き物なのかもしれません。

2010/08/06 高瀬千図拝

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