2010/12
何が人の役に立つのか分からない

今年はいつになく暖かな日が続いていましたが、一昨日は雪。ほんの少し積もりました。雪が降ると、冬枯れの森が華やぎます。晴れた朝はことに枝に積もった雪が金色に染まってまばゆいばかりです。

ここに住むようになって五年目に入りました。五度目の冬。冬が近づくといつも心地よい緊張感を覚えます。ストーブの薪を買い込み、焚きつけになる粗朶そだを作り、冬支度を始めます。

標高1300メートルのこの場所は、もっとも寒い時期には氷点下18度にまで下がります。薪ストーブは必需品です。薪は楢が中心ですが、楢は堅くて容易に燃えてくれません。でもとても火持ちがいいので、ここでは欠かせない薪です。このごろではすっかりストーブと薪の扱いが上手になりました。火付きの悪い楢の木をいきなりストーブに入れても火は消えてしまいます。雑木をまず燃やしますが、薪屋さんが届けてくれるのでは大きすぎて、火付きが悪く、すぐには燃えてはくれません。

 

何が人の役に立つのか分からないと思ったことのひとつに薪割りがあります。かつて阿闍梨になるための修行中、最後に五段護摩というのをやらなくてはなりませんでした。護摩というのは、インドのヴェーダではホーマといいます。明王部の仏たちに炎を通してさまざまに香木や香油を捧げるのです。つまり燃やすのです。護摩壇というのがあり、それぞれの仏の真言を唱えながら、次第にしたがって炎の中に決められた香木や香草、香油を次々に投げ込んで供養します。一座を終えるのに四、五時間かかります。背中もお尻も痛くなり、夏などは太い蝋燭が飴のように曲がってしまう暑さです。冬は冬で火の気のない道場で、朝の四時から準備をします。

その護摩を焚くには燃える物が必要です。四時間以上、焚き続ける護摩木を自分で作っておかなくてはなりません。その修行のおかげで私はすっかり薪割りが上手になりました。斧で大きな丸太を二つに割り、四つに割り、そして太さが三、四センチになるまで割っていくのです。

 

薪割りはとても面白くて、力で割ると失敗します。薪を割る時は、割ろうとしてはいけません。割ろうとすると、薪は斧の力とぶつかって吹っ飛んでしまうのです。虚心になって丸太を見つめ、ただ斧を振り下ろす。つまり薪と一体化する、といったらいいでしょうか。薪割りは実は『気』の世界なのです。気が整い、薪と一体化し、力ではなく、気で斧を振り下ろす、すると、薪はすっきりと二つに割れます。

で、今日も薪割りをしました。さくらとアカシア。間伐材です。薪割りをすると、たちまち体が熱くなってきます。気が通るせいでしょう。すっきりと心地よいのです。

山の中の一人暮らしはどこにも甘えることが許されません。そんな小さな覚悟のせいかどうか、なにもかもが凍りついていくこの季節には、身も心も引き締まります。森が歌い出すような緑したたる5月もとても好きだけれど、私は何もかもが凍りついていく静けさに満ちた冬が、四季の中でもいちばん好きかも知れません。眠りにつこうとする森の気配、静謐で透明な大気、その凛とした美は言葉にしようもないものがあります。

2010/12/06 高瀬千図拝

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