今年はいつまでも寒く、ここ八ヶ岳は未だ朝は氷点下10度の寒さが続いています。いつもならフキノトウも芽を出す時期なのですが、土は凍りついたまま。それでも目を上げると小枝にはたくさんの小さな芽が膨らみ始めています。
なかでもコブシは白い花びらを持つ美しい花木ですが、どの花よりも早く咲き始めます。モクレン科の花で、このあたりのものは淡いピンクの薄い花びらをしています。それがいかにも春を待ちかねていたように、青い空にむかって枝いっぱいに咲く姿は壮観です。
東京に仕事に出る道すがら、高速道路を東京に近づくにしたがって、季節がどんどん春に近づいていくのを見るのはいつも楽しいものです。150kmの距離がちょうど季節的には一ヶ月あまりに相当します。雪の残る山沿いから次第に緑が増していき、やがて満開の梅の花が山裾を彩ります。たった2時間の移動の間にこんなに季節の変化を見ることができるのは、もしかしたら細長い国土を持つこの国だけかもしれません。
自然の中で暮らしはじめて5年、山の中のひとり暮らしは寂しいだろうという人がいますが、それがまったく一度も寂しいとも怖いとも思ったことがないのです。森の中は豊かなエネルギーがあふれていて、毎日変化していくその美しいありさまに感動するばかり、飽きるということがありません。毎朝、目覚めるたびに、森は清新なエネルギーに充ち満ちています。
むしろ人は雑踏の中、人の中にいるときの方が寂しいのではないかと思う時があります。都会の暮らしは干渉されない気楽さがある代わりに、生き生きした感覚を鈍らせてしまうのも事実ではないでしょうか。物はあふれているけれど、エネルギーは枯渇しています。田舎暮らしをするようになってから、私の心の変化のひとつに物をほしがる気持ちがなくなったことがあります。
エネルギーが充ち満ちている環境では人はさほど物を欲しがらなくなる、というのはあながち私だけのことではないようです。BSのドキュメンタリーで見た『世界一幸福な国・ブータン』の人々が語っていたことがその証のひとつかもしれません。
ヒマラヤの裾野、山間の土地にしがみつくように建てられた住まいと段々畑。子供たちは険しい山道を何キロも歩いて学校へ通います。とても質素な暮らしですが、ある若い母親はインタビューに答えて言いました。「物はほしくないです。心が豊かで、家族が元気なら、それで十分幸せだから」
いつだったか、ネパールのポカラから飛行機に乗ったとき、ブータンの方と隣り合わせになりました。観光課のお役人とのことでしたが、もの静かで暖かな話し方が印象に残っています。カトマンズまでの1時間のフライトの間、お国のこと、これからのこと、いろいろ話してくださいました。「今度はぜひブータンにいらしてください」別れしなに名刺をくださいましたが、「ええ、ぜひ参ります」と答えながら、いまだ行けずにいます。
ただ不思議なことに10年以上が過ぎた今もあのブータンの方が漂わせていた空気を私は忘れないでいます。繊細なやさしさとさわやかさ、あれはきっと世界一幸せな国ブータンが持つヒマラヤの空気だったのかもしれません。
2011/03/06 高瀬千図拝