2011/05
母の人生を想う

今年は天候不順で最近までここ八ヶ岳では毎朝、霜が降りる寒さでした。そんなとき、東北の被災地の皆さまはどれほど大変だろうと、ニュースを見るたびに胸が痛みました。一日も早い復興を祈るばかりです。

私事ですが、先日来、故郷の母に異変があると知らせてくれる方があり、慌てて帰ってみました。

90歳、何が起きても不思議ではないのですが、本人はいたって意気軒昂。食欲は私に勝るほどで、ほっと胸をなで下ろしました。母の行動にちょっとした誤解があったようです。

これまでは本人の希望で気楽な一人暮らしをしていましたが、それでもいよいよ身の回りのことを自分でやるのがおっくうになったようで、ようやく人の手を借りることを承諾してくれました。子供達が引き取ろうにも、友達のいない環境ではすぐに退屈してしまい、一週間ともちません。いずれの時、どこの家庭にも起きる問題ではありますが、人生の最後の時間を一緒に過ごせないのはつらいことです。

ただ年を取るにつれて人はこんなに素直にかわいくなるのだろうか、と母を見ていて思います。戦前から戦後、青春期は戦時下、長崎に原爆が投下されたとき、母は私を身ごもっていました。その体で父を探しに爆心地の近くまで、泣きながら歩いて行ったといいます。実家から爆心地までは16㎞、手前で憲兵に止められ、泣く泣く引き返したのだそうです。

24歳の彼女が見た街が地獄の様相であったことは容易に想像できます。母はそのときのことを私たちによく話してくれましたが、会社から爆心地を横切って家まで歩いて戻った父は自分が見た光景について決して二度と口にすることはありませんでした。それほど恐ろしい情景だったのです。

工学系の仕事についていた父は、放射能の恐ろしさについて幾分分かっていたようです。その頃は薬もなく、敗戦のまっただ中、食糧すら乏しいときでした。放射能は体内に大量の活性酸素を作り出し、それが細胞やDNAを破壊することで人が病気を発症することを知っていたのでしょうか、みんな抗酸化作用を持つ食品をできるだけ摂るようにしたとのことでした。昆布は常食、それにいちばん手近なところで手に入る柿の葉茶を毎日たくさん飲んだそうです。

そんな時代を生き抜いて、すっかり年を取って、それでもきれいで素敵なお婆ちゃんだと言われることを何より喜んでいる母を見ていると、なんともいとおしく、同時に人の持つ底力のすごさを感じさせられてしまいます。

悲観したり不安材料をあげつらうより、まずはできることをしながらともかく一日を生きていく、そのことの大切さを母を見て思います。先日一緒に行ったデパートで素敵なワンピースが目に止まり、「あれ、素敵ね」と言った母のことばを私はあまり真剣には聞いてはいませんでした。ところが、翌日になってもまた「ねえ、あのワンピース、買えば良かった」と言う母を見て、ふっと笑みがこぼれました。おしゃれをしたい気持ちがある間はまだまだ大丈夫、と思ったからです。またそのデパートに行き、母のためにその服を買おうと思っています。まだ売れないでいるといいのですが・・・。

2011/05/05 高瀬千図拝

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