2011/06
罪悪感とは

ここ八ヶ岳も今年は天候不順が続き、いつもより早い梅雨入りもあって肌寒い日が続いています。

それでも雨が降り続く日も森の木々はまるで光を放っているかのように明るんで見えます。新緑が放つエネルギーなのでしょうか。この季節の森はなんとなく賑やかで、鳩の夫婦が毎年やってきてはベランダで求愛ダンスを繰り広げたり、キジの雄は危険も顧みず伴侶を捜して森のなかを歩き回ったりしています。季節のいとなみは静かで美しく、日々変化し続ける自然には心打たれます。

 

先日はまた『副人格の統合』のセミナーを行いました。
このプログラムは制作した私自身も予想だにしなかった作用を持っていて、今回もなかなか面白い展開になりました。心というのは未だに計りがたいほど深遠でさまざまな働きをしていますが、潜在意識で起きていることは一般的には顕在意識では扱うことができないとされてきました。

しかし催眠誘導を用いることで私たちが顕在意識では通常触れることのできない心の深部に到達できることも分かってきました。

ずっと抱え込んでいた無意識の思考パターンやその結果生じていた行動パターンをこの心の深部に触れることで変化させることができることも明らかになりました。

とはいえこれも意図的に変化させようというのではありません。

 

潜在意識に根深く存在し続けていたものの存在に気づくだけでそれは変容し、手放すことが可能になるのです。

 

今回のグループマインドでもっとも強く出てきたテーマは『罪悪感』でした。
これは今日本中を覆っている意識でもあります。自粛というのもその根には罪悪感があります。

しかし、この罪悪感をよくよく観じてみると、誰にとっても助けにならないものだということも見えてきます。持っている人が持たない人にいだくものですが、では、罪悪感を持っているからといって持っている人も持っていない人も幸福になるかというと、答えは否です。

罪悪感というのは、いわばエゴが自分の行為行動をどこかで正当化しようとする意識であり、この感情を抱いたからといって実は誰も幸福にも豊かにもなりません。

 

人は本来、自分とともに自分以外の人も幸福で豊かであることを喜ぶ生き物だと私は思っています。
アダムとイヴが蛇の誘惑で知恵のリンゴを食べたとき、罪悪感や恥の感情が生まれたと旧約聖書に書かれているのはひとつの象徴的な寓話です。そこでは本来の私たちの姿はゆがめられ、貶められています。ここでのキーワードは恥と罪の意識を持ったという点です。

ではその恥と罪の意識を手放して、自分もそして自分以外の人も幸福で豊かであることを喜ぶ私たちであったらどうなのでしょう。
今回の『副人格の統合』ではその地点に戻り、人間本来の豊かさへと回帰していくワークとなりました。

潜在意識の闇を解放することで、人の持つ真の可能性が花開いていく。
そのプロセスに立ち会うことができるということが、ネオ心理学を立ち上げた私の最大の喜びであることもまた認識させられた二日間でした。

2011/06/06 高瀬千図拝

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