富山に来てはや一か月になります。このところ神社めぐりをしています。
ここは古代からの『国つ神』が多く、地形的にもとても興味深いところです。まずは霊山立山があり、雄山神社が祀られています。この神社には国の天然記念物に指定されている杉の巨木が林立し、訪ねるたびにその巨大さに圧倒されます。
神域には何か特別なエネルギーが満ちていて、天を突くような巨木となってその形態を見せてくれているように思います。木々の一本一本に神が宿っているかのようです。
もうひとつは気多大社。
能登一宮で奈良時代以降、朝廷から正一位を下賜され、奉幣使が毎年遣わされてきた位の高い神社です。
能登半島の付け根にあり、国造りの神である大国主命が祀られています。大国主命とは実は一人の神ではなく、景行天皇の御世に国を平定するためヤマトタケルが侵攻し、そこで敗者となったこの国のもともとの神々の集合体だとも言われています。古代史だけでなくこの国の歴史をひもとくと、いかに多様性に満ちた面白い国かがわかります。
東の果ての国、その先は太平洋です。ユーラシア大陸での民族や国同士の争いに負けた人々は東へと逃げて、日本にとどまりました。多くの文化やならわしや言語、信仰のかたちまでも吸収しながらこの国は多民族融合国家となっていきます。
ネイティブ・ジャパニーズはアイヌです。
彼らもまた新興勢力に押されて北へと移動させられました。
しかし古代はとくに他民族の流入が続きました。国家という概念や国境という線引きがなかったからです。大陸から移住してきた人々は、遠くはペルシャや天竺(インド)、中国や朝鮮半島などから、時には争い、時には融合して、互いに混血を繰り返してきました。
日本が単一民族だと主張する人たちがいますが、その主張は歴史を見るかぎり論理性に欠けています。現代のように国家間の緊張が高まってしまったのは、世界に国家という線引きがされ、民族の交流が不自由になったからです。
流れなくなった水(人)は腐っていきます。
その国家に宗教や主義がはびこり、国家エゴの増長に拍車をかけました。人々もやがてそれがあたかも正当な、もともとの権利であり存在証明のごとく思い込んで、国際紛争を繰り返しています。
こと個人においても大差はありません。
競争や勝ち負けというのは、けっして人を幸福にしませんし、ましてや嫉妬心を抱いていると、人は孤独になってしまいます。自分の周りの人たちとの関係にシンパシー(親密感、信頼感)が育つ余地がなくなるからです。
どれだけたくさんの人がいたとしても、そこはまさに孤独という不毛な荒野となってしまいます。どんなに小さな競争心でも嫉妬心でも捨てたほうがずっと楽しく生きられる、と私は思います。
世界にはたくさんの素敵な人たちがいるのだから、子どものようにすぐに友達になって一緒に遊びだすことができたら、どんなに世界は豊かになるだろう、なんて夢見てしまうのです。
それにはまず自分から、というのは自明のこと。
心の中のどんなに小さな競争心も嫉妬心も見つけ出しては捨てていく。そして晴れやかで、光満ちる心と体で生きていく。そうなったら空がますます広く、青く見えることでしょう。
2013/10/06 高瀬千図拝