2013/11
嘘なく生きる

富山に来て、おそらく初めて知った人が一人もいない状況というのを経験しています。むろん娘はいますが、家族以外は誰ひとり知っている人がいないのです。

初めて上京したときには大学時代の友達がいましたし、就職先の人たちや同人誌の人たちとの出会いがありました。若かったから怖いもの知らずで、どこへでも入っていけたのです。

そのころ出会った人たちの中には今もお付き合いが続いている方たちがいます。嘘がない相手とはどんなに時がたとうと離れていようと友達でいられるものです。

ただ嘘にもいろいろあって、なにからなにまで正直に言うというのは、よほどの配慮がないかぎり単なる幼稚さの現れだったりします。
 

仏教には『嘘も方便』という考え方もあります。

法華経の中に語られている『火宅』がそのひとつの例です。家が燃えているのに遊びに夢中の子供たちは逃げようとしない。だから「こっちにもっと面白いものがあるよ」と騙して外へ出したという。
 

今やこの種の方法=嘘は大衆操作に使われています。

民主主義というのはどうしても大衆迎合を余儀なくされる性質を持っていて、多数派というのがいわば正義となり、衆愚政治に拍車がかかります。しかも社会には『長い物には巻かれろ』的な状況を容認する風潮もあります。

『嘘=真実に反すること』というのが大きな社会、国家的なことの場合、人はその『嘘』に鈍くなる傾向があり、時には慣れてしまいます。

しかし、これは目に見えない罠のようなもので、気が付かないうちに個人の行動をしばり、言論や表現の自由をも奪ってしまいます。ことに宗教の場合はその人の自由な意識の在り方まで破壊してしまいます。
 

その極端な例として、『嘘なく生きる』ことがどれほど大変なことか思い知らされたのは、タリバンによるパキスタンでの少女銃撃事件でした。

マララ・ユスフザイさんは中学生。登校中、『女に教育は必要ない』とするイスラム教の過激派タリバンに襲撃され、頭を銃で撃たれました。瀕死の重傷を負いましたが、イギリスの病院に搬送され、からくも一命を取り留めたことはどなたもニュースでご存じだろうと思います。

マララさんはノーベル平和賞の候補にあげられ、国連でスピーチしました。

「女性にも教育は必要だ」と。

その内容はとてもシンプルであっただけに深く心が揺さぶられるものでした。私たちには《女性が教育を受ける権利を持つ》ということは、水道をひねれば水が出るのと同じように当然のこと、と思っています。しかし、それだけで命を失うような国がまだこの地球上にはたくさん存在しているのも事実です。

ほんの少しの勇気と正直さがあれば『嘘なく生きる』ことができると思うのは、日本という安全な国に住んでいるからにほかなりません。

しかし、真理はひとつです。

何が真実で何がほんとうは正しいのか、世界がいつか真に目覚めるときがあるとすれば、それは『私』という個人がほんとうに嘘なく生きることができたときだろうと思います。

マララさんの事件はそのことを改めて考えさせられる、大切な機会となりました。

2013/11/06 高瀬千図拝

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