この写真は富山中央植物園の鬼バス。葉っぱの下、水の中には大きな蓮のつぼみが今にも咲こうとしています。
ここは鴨たちの休息場。鳥たちを痛めつける者は誰もいません。
それを知っているのか、秋になると鳥たちの避難所になっているらしく、池とその周辺には驚くほどの数の渡り鳥が集まってきます。
以前、八ヶ岳に住んでいたころは11月半ばから狩猟解禁になるため、近くの池でもようやく子育てが終わった鴨たちが毎日銃で狙われていました。
迷彩服を着こみ、銃を持つと自分が強くなった気がするのか、それまで潜在意識に眠っていた暴力的な遺伝子が目覚めるのか、顔つきまで変わってしまった男たちが森をうろついていました。
武器を手にすると使ってみたくなる、というのはY染色体を持つ人間のひとつの傾向なのでしょう。
シリアでの惨状、再び戦場と化したイラク、イスラエルとパレスチナ自治区の戦闘。異常なまでに破壊兵器が使われています。憎しみによる負の連鎖は21世紀になっても留まることを知りません。ご存じのとおり、これらの戦争に共通しているのは、その原因が宗教や主義だという点です。
つまり信仰する神が違う、バイブルやコーランの解釈が違うということが他者を否定する理由になっています。
しかし、人を殺してまで通さなければならない主義や信仰などあるのでしょうか。宗教があって人間があるのではなく、人間があってこその信仰だというのは自明のことです。私個人は『ある特定の人間を神とあがめる信仰』という宗教には大いに疑問を持っています。
神とは本来『火水(かみ)』つまり陰陽のことです。
火と水に象徴される陰陽の相反するエネルギーの反発によって運動が起こり、そこに物質の生成が始まったというのがこの宇宙創造の起源でもあります。
私なりにもし神とは何かと問われれば、それは陰陽の動きに始まる『創造そのもの』と答えます。その創造のプロセスで起きた奇跡が『命』の誕生だと思っています。しかし、その『命』にも負の爆弾が仕込まれていました。
エゴと過度の欲望。
2005年、地雷や生物兵器などを禁止する特定通常兵器使用禁止制限条約が結ばれましたが、調印した85カ国以外の国にとっては何の意味も拘束力もないうえ、調印した国でさえ実は武器の製造も輸出も禁止されていません。自分は使わないけれど、紛争地にはどんどん輸出して良いという条約です。
お金と権力とを握る人たちにとって人生とは、世界とはいったいどんなふうに見えているのでしょう。
想像ができません。
カルマの法則からみればやったことはすべて自分に返ってくるし、償うのも自分自身なのですから、その人たちの来世はまた大変だろうなと思うしかありません。
若いころ、とても生意気だった私はある高僧に言ったことがあります。
「ただ祈っているだけで飢えた子を救えるのでしょうか」と。
高僧はたいそうお怒りになりました。でも、ようやくこの年になって、祈ることの力もまた知るようになりました。
手が行うこと(行動と物質)も大事であり、心が行うこともまた大事であるという、両方なくてはならないということです。
ただもし戦争をなくしたいと思うなら、
せめても自らの内にある怒りや「私が正しい」という意識を手放してしまう、
それしかなさそうです。
つまりどんな戦争も「私が正しい」という、個人のささやかな意識から始まったことなのですから。
2014/09/06 高瀬千図拝