この花は富山市中央植物園の温室で撮影しました。名前は分からないのですが、なんとも美しい紫色に心惹かれました。
少し時間ができると植物園や立山を散策したり、小さな花を摘んで帰ったりしています。植物がとにかく好きで、それが高じて今は新聞社が主催する植物細密画のクラスに月に二回ほど通っています。
初歩の初歩ですが、それでも花一輪を描いている間は思考のいっさいが消えて、その花だけで私の心も頭もいっぱいになります。
普段は言葉を使って暮らし、また私の場合は言葉を仕事にしていることもあり、花を見つめ、描いている間の言葉のない時間、心も頭もただ花を見ている、手を動かしているだけの時間は、まるで深い瞑想で得られる静寂の中にいるような状態になります。
そこで気づかされたのは、私たちが現実をいかに思い込みで見ているか、ということでした。
細密画のクラスの友人の話は印象的でした。
彼女は毎年庭の椿の木の剪定をしていたのですが、先日、切り落とした枝を拾ってつくづくと眺めてみたら、花弁が六枚あることに気づいて驚いたというのです。
「私、ちゃんと見もしないで、椿の花びらは五枚だと決めつけていたの。思い込みのまま花を見て、疑うことも調べることもしないでいたんです」
私も同様で桔梗の花が一枚の花びらでできていることを最近まで気づきませんでした。五弁の花びらが重なっていると思い込んでいたのです。しかも花びらには規則的に五本の脈が走っていて、美しい幾何学的な模様を作っていることにもようやく気付きました。
一輪の花をちゃんと見るとそこにはなんとも素晴らしい世界があることに気づかされます。それまで見えなかったものが見えてきて感動してしまうのです。
マーガレットの花は白い 舌状花 と中央の黄色い 管状花 でできています。
管状花は放射状にみごとな幾何学模様を描き、その小さな黄色い粒がひとつの花を形成しているまさに驚異の世界。こんなことを言うのは本当に大げさなようですが、でもやはり
『宇宙の法則性と創造性はまさに驚異的な知性を持っている』
ことに心打たれてしまうのです。
ことほどさように私たちは現実を自分の思い込みで見ていて、それがまた現実だと思い込んでいることに改めて気づかされたのが植物細密画の世界でした。
それ以来、見ているつもりの世界、見えている世界はその世界そのものとは違うのだ、ということを胸においてきちんと見るようになりました。
『人は生涯、自分の意識世界から出ることはない』
と 唯識教学 では言っています。
クリシュナムルティもまた
「現実は自分自身の意識を映す鏡である」
と言っています。
それで言えば、見ているつもりのこの世界をただ漫然と見ているだけでは、とてももったいないと思うようになりました。
道端の雑草ひとつ、ちゃんと見ることによって、そこに素晴らしく美しい世界が展開していることに気づくのです。
『世界の豊かさは感性の豊かさに比例する』
と言った人がありましたが、『美』もまたそれを見る人の心の内にある、ということでしょう。
天眼鏡 を片手に、今日もまた花を見ています。
2014/10/05 高瀬千図拝
※冒頭の紫の花は キツネノマゴ科コダチヤハズカズラ という名前でした。