2017/11
豊かさの礎

シンビジウム

10月31日、初霜が降りました。11月、私のいちばん好きな時の訪れです。小川に薄氷が張り、森は次第に静まっていきます。人で言えば瞑想状態に入っていく時に似ているかもしれません。すべてが代謝を落とし、眠りにつこうとする季節。私の心もとても静かになっていきます。
 

今まで度々取り上げてきた思考する力、考え抜く力について今回もまた考えてみたいと思います。私たちは地図上の二次元、または旅を通じて知る三次元の世界を世界と言いますが、もうひとつ、私達の世界があります。内的世界と自分を取り巻く環境をも包含する世界、『コスモス』と言ったらいいでしょうか。その自らの世界であるコスモスを洞察し、より深く感じ取ることは自分自身と自分自身を取り巻く世界をより豊かに深く理解することに役立ちます。そしてその思考を助けてくれるのは、言葉の豊かさです。思考は言葉によって可能になるからです。
 

では、その力はどうしたら身につくかと言えば、これはたくさんの本を読むしかありません。読書といっても、普段から本を読む習慣のない人にはなかなか難しいもので、読んだからといってすぐに内容がスムーズに意識に入ってくる、というわけにはいきません。そのことを思い知らされたのは、高校一年の時。ある日突然、担任が私のところに来て、「おい、これを読んでおけ」と一冊の本を手渡しました。
 

それは岩波新書の『自由と規律』という本でイギリス文学者池田潔がイギリスのパブリック・スクール留学中に感じたこと、自由というものの本質について書いたものでした。高校一年の、しかも文学書しか読んだことのない私にはいささか難解で、内容がしっかりと入ってくるまでには時間がかかりました。
 

しかし、この本は後々、私の『自由』に対する考え方の基礎を築くのに役立ちました。次に担任が「読んどけ」と渡したのは中央公論社の月刊評論誌『世界』でした。読ませたい部分には付箋が付けてありました。世界の政治動向についての小論文でした。今でも分からないのはなぜ担任が私にだけそんな本を読ませようとしたか、ですが、今もってその理由は分かりません。しかしながら、それを機に私は難解な本を自分の意識につながるまで執拗に繰り返し読むクセがついたのは確かです。それも後から担任に「どう思ったか」と聞かれるからです。
 

その内容は一回読んだくらいではなんのことか全然わかりませんでした。しかし、二回、三回と同じ文章を繰り返し読んでいくうちにおぼろげながら何を言っているのかわかり始めてきました。分かってからまた読むとスムーズに内容が意識に入り込んできます。
 

このわかるまで何回も読む、という習慣が身についたことは『道真』を書く時にとても役立ちました。資料といって当時の正史は『日本三代実録』しかなく、そこには当時の日付と天候、出来事が正確に記録されてはいるものの、それはただの漢字の連なりで、読み下しの記号すらついていませんでした。
 

読んでいるのではなく、ただ字面を見ているだけの状態が何日も続きました。一回、二回、三回、そして四回目のことでした。突然のように書かれている内容の意味が浮かび上がってきたのです。それは浮かび上がってきたとしか言いようのないものでした。
 

人から見れば何を好き好んでこうも苦しいことをやっているのか、と見えたようですが、その時の私は実は見えないものが見えてくるときのなんとも言えない快感を感じていたのです。ほんとうの喜びというのは、いかなる苦しみもいとわないという決心の先にあります。
 

何が人の役に立つかそれぞれ違います。しかし、こうしてわからなくても何回も読んでみる習慣がついたのは、高校一年のときの担任のおかげです。それによって私のコスモスは豊かになり、肉体は確かに72才になったものの、意識や心はいまや若いときより弾力に富み、好奇心も記憶力も衰えません。言葉の豊かさ、それが思考の豊かさにつながるという、これは今や私の確信になっています。

2017/11/06 高瀬千図拝

 

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