2018/04/13
これが泣かずにいられようか

湖の春

平成30年4月某日

観世銕之丞かんぜてつのじょうさんは寡黙な方だと思っている人が多いかもしれない。そして、どちらかと言うと無愛想な方だと。でも、一緒に飲んだときなど、なんだか馬鹿話で笑ってばかりいた。奥様は井上八千代いのうえ やちよさん。どちらもたしか人間国宝である。すごいご夫婦。でも、とってもきさくで楽しい方々だ。

能の会のお手伝いをしているときはあまり個人的な話はしなかった。会がなくなって数年たってから居酒屋でご一緒したとき、ようやくどうでもいい話ができるようになった。私が昭和20年に生まれたことや胎内被曝したこと、それで 中上 健次 なかがみ けんじさんに「あんたさあ、超人ハルクになったんじゃないの」とからかわれ、「私、緑色ではありません」と妙な返し方をしたことなど。

で、日本酒がお好きなのでお相伴しょうばんした。たぶん私はそれまでそんなに日本酒を飲んだことがなかったので、帰り道千鳥足というのを初めて体験した。体がゆらゆらして、そうか、これが千鳥足か、とひとりで面白がっていた。
 

どこでこんなことになったのか。
実は能については何にも知らないときに観世さんの能の会のお手伝いをする羽目になった。当時、 銕仙会 てっせんかいの事務局長だったM女史に強引に口説かれたのだ。

たまたま引き受けた能のパリ公演をたまたま成功させてしまった結果だった。能についてはただの素人、または観客。もう少し言い訳すると能は構造的に小説家として興味があり、時々能楽堂に行っていた。そのくらいだから、私の不安はものすごくて、何度も固辞した。しかし、お金(制作費)の心配はいらないからという約束で始めたのに、その後、M女史は知らん顔。

毎回、制作費を集めるために走り回ることになった。それでも何とか五回までやれたが疲れ果てた。それに能の世界の方々はファンも含めて、なぜ私が会の運営をやっているのか謎だったのだ。いろいろ聞こえてきて傷ついた。

何やかやつらくて、ある日、とうとう弱音を吐いた。
銕之丞さんは黙って聞いていらしたが、「でも、やりましょう」と言われた。結局、それは 九世観世銕之丞 きゅうせい かんぜてつのじょう襲名まで続き、続いたのは銕之丞さんご本人の努力によるのだが、襲名後に私は退いた。

それでも、友人としての関係は続き、時に稽古にいらっしゃいと言ってくださるものの、私は正座がつらくてお断りしている。30分も正座していると立ち上がるときどれほど無様になるか自分で分かっている。足首の感覚がなくなってヨレヨレする。人の膝の上に倒れ込む。他人がそうなるのを見てしまうと、あまりにみっともなくて、正座に慣れるまで待つなんてとてもできない。
 

しかし、能は今も大好き。「能なら毎日観てもいい」と言ったら、銕之丞さんに「そんなことを言うのはあなただけだ」と笑われた。

名人の『隅田川』を観ていると、つい泣いてしまう。一緒に能を見に行ったドキュメンタリーの監督さんに「能を観て泣く人を初めて見た」と言われた。

でも、能『隅田川』を観て泣かない人は感性が鈍いか、共感性が低いか、想像力が欠如している。子を突然人さらいに連れて行かれてしまった母親が物狂いとなって子を探し歩くという話。そして辿り着いた隅田川。

八世銕之丞先生は九世銕之丞さんに生前、こう言われたそうだ。

「隅田川といっても平安時代の終わり頃だぞ。茫漠ぼうばくたるススキの生い茂る、何もない関東平野をただ横切って流れている隅田川だぞ。どれほどもの寂しいところだったか。それを女一人、子を探して辿り着いた。そしてそこの渡し船で子が死んだことを知らされる・・・」
これが泣かずにいられようか。

2018/04/13 高瀬千図

 

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