平成30年5月某日
桜が散り始めた。風にくるくる舞いながら庭一面、雪より優雅に舞い落ちる。
ここは冬が長い。とくに今年はいつまでも寒さがしつこく大地にしがみついていた。雪なら暖かな布団みたいになるが、ただ凍ってしまった大地はなかなか溶けない。
「今年のタマネギはみんな失敗」と友だちが言った。凍って腐ってしまったらしい。「雪ならね、ちゃんと育つし収穫できるのよ」
だから、春がとても待ち遠しかった。桜が咲き出すのを待って、毎日毎日枝先をなめ回すように見ていた。そしたら、辺りの森も我が家の庭も例年にない美しい桜が咲いた。
ああ、この日をどれほど待ち焦がれたことか、私はうっとりと満開の桜を眺めた。
それが今日、散り始めた。曇り空から雪のように舞い落ちてくる。
あんなに長いこと待って、ようやく咲いたというのに、散り始めた。この寂しさ。
今の私には、『ものごとには始まりと終わりがある』なんて分かったようなことを言っても何の説得力もない。桜が散る。なんとも寂しい。また来年まで待たなくてはならないのだ。
蜂も飛び始めた。『ハチ激取れ』とかいう甘い誘因液のはいったハチ捕りを買ってきた。巣を作られるとやっかいで、私はまだ刺されたことはないし、ただ周りをさりげなく飛んでいくだけだが、知り合いは刺され、アナフィラキシー・ショックを起こして救急車で病院に運ばれた。
そんなある日、奥歯が突然、怒り出した。抜く予定だった歯だが、化膿が治まるまでは抜けないということになり、抗生剤の点滴を受けることになった。17時を過ぎるので、救急病棟のベッドで点滴を受けていると、カーテン越し、となりに男の人が寝かされていた。
私が点滴に退屈してうとうとするたびに、隣の男性の携帯がピコ、ピコ、ピコと連続音を響かせる。
どうやらその人も点滴に退屈して携帯をいじっているらしい。ピコピコが止むと今度は受信の変な節をつけたコンピュータ音が鳴る。それがあまりにひっきりなしなので、私はうたた寝もできない。退屈な点滴にただじっと耐えていると、だんだん腹が立ってきた。
「マナーモードにしなさいよ、うとうともできないじゃないの」と私は心の中で思う。
ピコピコは続く。
「救急病棟でなに携帯やってんのよ、ほかにも病人がいるでしょ」とますます腹が立ってくる。
一時間経過。
ずっとピコピコピコやっていたオジサンのところに女医さんが来た。
「大丈夫? 気分悪くない? 大変だったね」と女医さん。オジサンの話では畑をいじっていたら、スズメバチに刺されたらしい。
「ここにはどうやって来たの?」
「救急車」オジサンは急に気分が悪くなって救急車を呼んだらしい。携帯に命を救われたのだ。
「そ、で、帰りはどうするの?」
「タクシー」
「ふうん、家には誰かいるの?」
「うん、猫がいる」
「そっか、猫と二人暮らしなんだ」
点滴を外してもらうと、オジサンはゆっくり起き上がって、黒いビニールのサンダルをつっかけ、前屈みにサンダルを引きずるようにして出て行った。カーテンの隙間から私はずっとオジサンの姿を覗いていた。紺に白いラインのはいったくたびれた運動着を着ていた。思ったより年を取っていた。オジサンではなくお爺さんだった。
猫と二人暮らし。
・・・その人がなんかいい人に思えた。
2018/05/05 高瀬千図