著者:ポール・クローデル
出版社:講談社
この本に出会ったのはもうだいぶ前のことです。たまたまなんの因果か、門外漢も甚だしい私が能の仕事に関わるようになってからのことです。
いろいろなことの成り行きから私は
どこをどうしたところで、私は能にはまったくの素人なのですが、
能は好きで観ていましたが、深く考えることもせず、物書きとしては知っておきたい世界でもあり、魅力もあると感じていたくらいのことでしかありませんでした。
迷っている私の背中を押してくださったのが、故
「君、能ならぜひやりなさい。あなたにとってそこは宝の山なんだよ」と。
不肖の弟子はそれで、というわけでもないのですが、荻原さんの説得に負けて能の世界に一歩足を踏み入れたのでした。
右も左もわからない、それでも九世観世銕之丞さんは不満も言わず、ひたむきにすばらしい能をたくさん演じてくださいました。それに引きずられるようにして、演目ごとに私も資料を読んだり、謡を細かく読んだりしながら少しずつ学んでいきました。
しかし、決定的に能に魅了されるきっかけになったのが、この本との出会いだったのです。ここには日本論、日本文化論、歌舞伎、能、徒然草にいたるまで、ポール・クローデルが出会った日本についてのノートが遺されていました。
私はこれ以上にすばらしい能学論に出会ったことはありません。『翁』、『羽衣』だけでなく能というものがいかなるものであるのか、読んでいて目が覚めるような心地がしました。
詩人のするどい直感と、移ろう光の微細な動きすらも見逃すことのない芸術家の視線(ポール・クローデルの姉はかの優れた彫刻家カミーユ・クローデルです)が、能をまさに生きたものとして、躍動する創造の極みとしてとらえられていたのです。
中の一部をご紹介します。
これは象徴的な内容になっていますが、おそらく『羽衣』の一説を述べたものではないかと私は思っています。天女が橋掛かりに現れ、ゆっくりと舞台中央へと進み始めます。
『出現したもの=シテが、ワキの目の前で、己れの幅一杯に体を膨張させ、己れの体を拡げようとするのは目眩めくような扇の金色の光線と一つになって光り輝くためであり、色彩と光とにすっぽり包まれて、まるで自ら神に変貌するために姿を消す準備をしているかのようであり、われわれの注意を身に受けてその身を膨らませていくようである…』
この一冊の出会いによって、『能』が初めてほんとうに生きたものとして私の中に入ってくるきっかけになりました。これから能を観てみたい方、また能がいまいちよくわからない方にお勧めのすばらしい本です。
この本については、2011/11 真摯に生きる でも紹介しています。