道真<上・下>(1997年5月)

出版社:NHK出版
 

菅原道真とは天神様、天満宮に祀られる学問の神様です。受験シーズンになると天満宮にはたくさんの人が合格祈願に訪れます。知らない人はいないくらいです。

私にとっても天神様と菅原道真像についての知識は、そのようなものでしかありませんでした。それがなぜその一生を書くことになったのか・・・。

実は少々神がかり的なことがそのころ頻繁に起きていました。
 

私の個人的なことをお話しすると、その頃、離婚問題や子供の登校拒否などが起きていたり、私自身も更年期障害が重くてひどく体調が悪かったときでした。

そんな時、前々からお付き合いのあったS氏から突然電話がありました。S氏は「突然サイキック能力が出てしまったんですよ」とのことでした。

「それでいろいろ情報が入ってくるんだけど、最近、どこか神社に行きましたか」と尋ねられました。

私はそう言えば、那智の青岸渡寺せいがんとじにも行ったし、能登の気多大社けたたいしゃにも行っていました。
「はい、金沢に行って、気多大社に詣でました」と答えました。

「そこでなんかありましたか?」とS氏。

「絵馬をそこにある天満宮に納めました」

実はまったく本が書けなくなっていた私は藁にもすがる気持ちで「良いものが書けますように」と祈願した絵馬を気多大社の脇にある天満宮に掛けていたのです。

「ああ、それだ。菅原道真さんがあなたに自分のことを書いてほしいと言ってます」

「?!・・・」

私は言葉もありませんでした。

なぜ?
天神様でしょう?
なにか私が書くようなことがあるかしら。
だって学問の神様で、大宰府に流されて亡くなった。
だから大宰府に天満宮があって・・・

と、私はそれくらいしか知らなかったのです。それにそれまでは現代小説、しかも純文学しか書いてこなかったのですから。その上、大の日本史ぎらい。
 

でも無視することができなくて、私は自分の本棚を眺めました。岩波書店の日本古典文學大系がぎっしりと詰まった棚のなかに『菅家文草・菅家後集かんけ もんそう・かんけ こうしゅう』というのがありました。菅原道真の漢詩集でした。

私は何気なくその1ページ目を開きました。

驚きました。
そこにはまことに美しく切ない抒情詩じょじょうしが現代語訳で載っていたのです。

私が引きつけられてしまった巻頭にあった詩を一部、私の訳で抜粋し、ご紹介します。百行もある詩のほんの一部です。
 

旅の愁いをさそう空をいく雁よ
木肌にしがみつく ひぐらしの冴えた声よ
わたしはある日、香りたつ花が風にそこなわれるのを見た

わたしは脚のまがった、杭につながれた子羊
わたしは皮膚病におかされ、翼の折れた雀の子
つながれた子羊はせめて垣根の外にあこがれ
つばさの折れた小雀はこっそりと戸口まで歩いてみる

・・・・・
来る日も来る日も雨は降り続き・・・

ああ、私は誰と物語りしよう
ひとり、肘を枕に眠るだけ

 

ああ、こんな方だったのかと思いました。こんな方ならもっと詳しく知りたい、と。
 

それから古文書と取り組み、日本史と取り組み、その時代背景を学び、官吏だったころ書かれた漢詩集『菅家文草』と取り組み、大宰府に配流になってから失意のうちに書かれた『菅家後集』と取り組みました。

毎日、国史大辞典や資料と首っぴきでした。しかも国家の正式の記録として残された文書『日本三代実録』はただの漢字の羅列にしか見えませんでした。

その意味がおぼろげながら読み取れるようになるまで、三回、四回と読み直すしかありませんでした。

大体のアウトラインが見えてくるまで三年かかりました。物語の構造を組み立てるのに一年半。そこで私はダウンしてしまいました。

朝、ベッドから起き上がることもできないのです。自分の能力のなさにも絶望していました。会社に行っても頭は朦朧としています。

どうしようもなくなって、とうとう住まいの近くにある天満宮に詣でてお願いをしました。

「書かせてください」と。

以来、願いは聞き届けられ、その結果いろいろな出会いがあって、いつしか体調も整い、それから一年半かけて一気呵成にこの物語を書きあげていくことになったのです。
 

上巻「花の時」では幼いころの出来事と初恋の人との出会い、高級官僚として学者として栄華を極めていく時代を描きました。初恋の人は六歳のときに出会った皇太子妃藤原明子でした。
 

下巻「邯鄲かんたんの夢」では、皇太后となった明子との秘めたる恋が太政大臣で弟の藤原基経に暴露され、讃岐へ左遷の憂き目にあいましたが、宇多天皇の引き立てで出世を遂げ右大臣まで上りつめていく時期を描きました。

宇多天皇譲位後は、幼い醍醐天皇にとっては父親代わりのような存在になりました。しかしそれが藤原氏にとって面白いはずがありません。やがて左大臣時平の嫉妬から道真は謀反を企てたという冤罪で大宰府に流されます。

栄華と転落と、それが一夜の夢として語られる能『邯鄲』をこのタイトルに選んだ理由です。
 

時平の命令は過酷で残酷なものでした。御所のある京から大宰府まで徒歩で行けというのです。

途中にはだいたい16キロごとに駅舎という公式の宿舎があり、朝廷の使者が休んだり、馬を取り替えたりする施設がありましたが、そこにも一切馬どころか宿泊も食事も与えてはならないとの通達が出されました。

まさに死出の旅でした。
弟子のひとり味酒安行うまさけ やすゆきが師をかばいつつ大宰府まで送り届けます。

たどり着いたところは人の住まなくなった廃寺。破れた屋根、傾いた扉、雨が降ると土間は池のようになります。

そんな廃屋で米も支給されず、病気はさらに悪化し、二年後の春、失意の中で亡くなってしまいます。
 

下巻「邯鄲の夢」では大宰府で詠まれたすぐれた抒情詩(現代語訳)をたどりながら、道真がいかに耐え難い苦痛と孤独の中で心の浄化につとめ、最期はすべてを許して彼岸へと旅立っていったか、そのことを知っていただきたくて書きました。

抒情詩はどれも切々として現代の私たちの心にじかに訴えかけてくる力があり、その言葉のひとつひとつにも目を見張る美しさがあります。

まさにいかなる環境、失意の中でも真に純粋な魂はこんなにも輝き立つものなのだ、ということを私はこの物語を書くことを通して学んだ気がしています。
 

※一般的には菅家文草は かんけぶんそう と読んでいるようですが、仏教に関連する資料の場合には文草「もんそう」と読んでいるケースもありますので、ここでは敢えて もんそう としています。

 

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(画像が無くて申し訳ありません)

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『日本古典文學大系』
『菅家文草・菅家後集』
『菅家文草』
『日本三代実録』