明恵 栂尾高山寺秘話(2018年9月)

出版社:弦書房
 

【書き始めの頃のこと】
書き始めて書き終わるまで20年。当然ながらずっと書き続けていたわけではありません。

というのも、華厳経けごんきょうの高僧であり、密教みっきょうを修めた阿闍梨あじゃりである明恵みょうえについて書くには、私はあまりにも無知だったからです。

その頃の私は真言しんごんのひとつも知らず、華厳経を見たこともありませんでした。明恵に惹かれながら、どこからどう手をつけたらいいのか皆目見当もつかなかったのです。
 

ただ、最初に明恵に心惹かれたのは、彼が内なる菩提心ぼだいしん=真実の愛に目覚めなければ、この世の悲惨は終わらないと言っていたからです。

ジョン・レノンと小野ヨーコがイマージンで歌っていたように。そう、私もそう思います。

人の意識が変わらない限り、この世の悲惨は続くと。

でも、明恵はいつ、どこで生まれ、どのように育ち、どうしてそのような意識を持つようになったのか、それを知るには膨大な資料が必要でしたし、それを読み込まなければなりませんでした。
 

神田神保町の古書店を訪ね歩きました。そしてある日、仏教関係の書籍を置く古書店でのこと、私が「こちらに華厳経はおいてありますか」と尋ねたところ、「出たばかりです。復刻版ですが」と店主が見せてくれたのは『口語訳 華厳経 二巻』でした。

口語訳のものは大正時代に一度出され、以後ずっと絶版になっていました。

私は目の前の経典を手にとって、「・・・やはり明恵について書きなさいと言われているのかもしれない」と勝手に思いました。ようやく華厳経に目を通すことができたのです。

華厳経については、後日、また触れたいと思いますので、明恵を書くにいたる経緯についての話に戻ります。
 

しかし、密教はというと、もともと得度とくどしなければ伝授されない約束のもので、文書からは窺い知ることもできないものでした。高野山に入り、得度し、密教を学ぼうと決心するまで1、2年はあったと思います。

書類を取り寄せ、高野山に入る手続きをしようとしたとき、たまたま知り合った方が醍醐寺だいごじ系のお坊さんを紹介してくれました。その方が密教を伝授してくれることになりました。

そうして、半年後、得度し、私は理趣りしゅという法名ほうみょうをいただきました。

知りたかった密教の神々とその真言と印とを修得し、修法をおさめ、ぎょうをやり遂げてようやく伝法灌頂でんぽうかんじょうにたどり着き、阿闍梨あじゃり
の職位を得たのでした。3年が過ぎていました。
 

それで密教がわかったわけではありませんでした。当然ながら。

修法を知ったくらいでしかなかったから、そこで使われる真言がどうこの世界の摂理と関わっているのか、人間にとっていかなる意味があるのか腑に落ちる、とまではいきませんでした。またまた悩ましいまま考え続けてさらに3、4年がすぎてしまいました。
 

つまり、ずっと書き続けていたのではなく、書くために知らなくてはならないことがあまりに多くて、それを学ぶための期間が途中で6、7年あったということです。

それだけではありませんでした。

時代が複雑すぎたのです。鎌倉初期、木曾義仲きそよしなか(源義仲の通称)に始まり、武士が台頭して中央、つまり朝廷に取って代わろうとした、戦乱相次ぐ混沌とした時代でした。群雄割拠ぐんゆうかっきょ、という状態であり、その群雄のひとりひとりにまた歴史と物語があったからです。

平氏と源氏、朝廷、そして各者ともにすさまじい政治と戦の駆け引き。人々とその歴史だけでなく、思想界、宗教界の動きもまた学び直さなくてはなりませんでした。そして主立った武将たちの系譜と動きを把握し、複雑を極める歴史と宗教界の動きなどを含めて、全体を俯瞰できるまで学ばなくてはなりませんでした。

そしてとうとうあまりの辛さに私は音を上げてしまい、この物語を書くなど私にはとても無理だと、断念してしまったのです。
 

そうして2年間、私は書かないどころか、原稿を棚の上に放り上げたまま見ようともしなくなりました。

私に書けるはずがない、のです。

もう少し楽なものを書こうとも思いました。
けれど何を書こうと、何をしようと、私の心の中は空虚どころか、生きている実感すら薄れていきました。

そんなある日、思いがけない人が訪ねてきました。一、二度は会ったことがある女性で私の講座にも出ていたことがありました。少し変わった方で、外出がきらい、人と会うのが苦手という三十代の方でした。その彼女が我が家を訪ねてきたのです。

「私は高山寺の明恵上人が大好きで、できれば茶道を究めたいと思い、先生にご報告にあがりました」と彼女は私に会うなり話し始めました。

私はなかば絶句していました。というのも彼女は私が明恵の物語を書いていることなど知らなかったからです。その人が東京から3時間もかけてこの山奥の私の家を訪ねてきたのです。

しかも、彼女を見た瞬間、「ああ 明達 みょうたつがやってきた」と私は直感したのです。明達とは明恵が人生の最後の頃、恋に落ちた相手です。

「ああ、やはり書きなさい」ということかと、そのとき私は観念したのでした。
 

途中、そんなこともあり、実質書くことに没頭したのは十年くらいです。

時代考証を含め、登場人物もまたあまりに多く、それを逐一調べながら手探りで書く作業が延々と続きました。ようやく形ができたとき、思うところがあり、藤野健一ふじの けんいちさんに原稿を送りました。

藤野さんは文藝春秋の元ベテラン編集者で、私のものは処女作から近作まで、ずっと読んでくださっていた方です。すぐにメールが来て、赤坂の東急ホテルのロビーでお目にかかりました。
 

「久しぶりに編集者魂に火が付きました」と藤野さんの目がきらりと光りました。もともと目鼻立ちのくっきりした迫力のある相貌を持つ方ですが、声には一段と力がこもっていました。

以来、藤野さんと私の格闘が始まりました。

藤野さんの指摘は本質からそれるものはひとつもありませんでした。そのアドバイスのおかげで私の『明恵』の物語は深度を増していったと思います。

彼は逐一作品の書き込みの甘さ、曖昧なところを指摘し、構造上の問題を引き出し、本質にかかわる内容をさらに詰めるよう要求を続け、私は私で、とにかくそれに答えようと必死でした。なぜなら氏の要求は確かに核心を突いたもので、私自身にも納得のいくものでしたから。

時には考え過ぎて頭が痛くなり、眠れなくなり、といったことが続きました。
 

時には数ヶ月もかかってようやく答えを探り当てるということが続きました。

「これで完成です」と藤野さんの一言にようやく筆を置きました。

初稿と言えるものを脱稿したのは2011年3月、東日本大震災が起きる数日前のことでした。私は言葉もなくテレビのニュースを見ていました。なんということが起きたのか・・・。仙台の友達に電話しました。繋がるはずもありません。夜になってようやくメールが繋がりました。「大丈夫、母も私も無事です」
 

しかし、書き上げてはみたものの、その後も数年間、出版社とは揉め続けました。

何しろ原稿用紙換算で二千枚あるのです。長すぎて、上中下の三巻にもなりそうでした。

出そうというところもありましたが、内容にいろいろと口出しをされるのは結構なのですが、その要求が支離滅裂というか、何もわかってはいない、と思わせるものでした。

その編集の方は実は明恵について何もご存じなかったのです。しかもその方が読んだのは一冊、研究者に資料的価値なしと断定された江戸時代の『明恵上人伝』だけだったのです。

話していても埒があかず、また少しも心が届かないもどかしさがありました。いったん素直に助言に従い、推敲しようとしたのですが、どうしても納得がいきませんでした。どこかエキセントリックな物語に変えようとしている気配すら感じました。正直、気が狂いそうでした。どうすればいいのか・・・。

さんざん逡巡した結果、出版は私の方から辞退しました。
 

それから2年、弦書房げんしょぼうとのご縁を思い出し、原稿を送りました。代表を務める小野静男おの しずお氏は私の盟友故・久本三多ひさもと さんた(かつての葦書房あししょぼうの代表)に育てられた編集者でした。

読み手として信頼できると思いました。

小さな出版社のこと、二千枚に及ぶこの物語をどうすれば本として出せるのか、何度も話しあいました。私は原稿用紙換算で二百枚ほどを削りました。そうすればなんとか上下二巻で収まる計算でした。

カバーに鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎがを使わせいただきたいと、小野氏と一緒に高山寺の田村執務長にお願いに行きました。その帰途、夜の清滝川きよたきがわ
で蛍の乱舞を見ました。

かつて明恵が見たであろう景色でした。

小野氏とはじっくりと話ができました。人の話をきちんと聞いてくださる方で、確固たる芯は確かに感じるものの、余計な自己主張をなさらないし、非常に静かな話し方をなさる、それが私には何よりありがたく思われました。

そしてようやく9月21日、『明恵みょうえ 栂尾高山寺秘話とがのおこうざんじひわ』は上梓じょうし
の運びとなりました。
 

【『明恵 栂尾高山寺秘話』を書き上げるまで】
1.書き始めの頃のこと(このページです)
2.インド-52歳のバックパッカー
 

【『明恵 栂尾高山寺秘話』の書評】
・歴史時代作家クラブ 掲載書評
・週刊読書人 掲載書評
・東京新聞 掲載書評(東京新聞における掲載期間1カ月を経過した為、リンクを削除しました)
・北海道新聞 掲載書評(北海道新聞における掲載期間3カ月を経過した為、リンクを削除しました)