夏の記憶(1996年6月)

出版社:葦書房
 

これは初期の三つの短編を加筆修正した作品集です。
はじめて小説を書くはめになったのは、作家の 故 森 敦もり あつし先生 と 故 中上 健次なかがみ けんじ氏 の企みによるものです。二人が私にとにかく書かせようと相談したらしいのです。
 

最初に書いた『イチの朝』は中上健次さんに締め切りまで指定され、家の近くにある喫茶店で書き上げたものでした。『イチの朝』はまさに私の処女作ですが、なぜ喫茶店で書いていたのか、その理由は家庭の事情にあります。

夫は私が書くことに反対でしたし、姑やらお手伝いの人やらいてとても書く環境にはありませんでした。子供たちを学校に送り出した後、スーパーに買い物に行く振りをして、私は喫茶店に原稿とペンを持ち込み、二時間ほど書く時間に当てていました。

喫茶店の人も親切で、イヤな顔もせずそうっとコーヒーをつぎ足したりしてくれていました。今はもうその喫茶店はなくなってしまいましたが、国立駅の北口にありました。

そんなふうにして『イチの朝』は書き上がり、中上さんの紹介で早稲田文学に掲載され、そのまま芥川賞候補に挙げられました。初めて書いた作品でしたので、候補になってしまうと、私は喜ぶどころか震え上がりました。小説の書き方すらよく分かっていなかったからです。書き続けることもできるかどうか、そう思うとほんとに恐かったことを思い出します。
 

続けて書けと言われて書いたのが『夏の記憶』。
これは新潮新人賞をいただきましたが、原題は『夏の淵』となっています。今はもう廃業している小さな造り酒屋を舞台に成長していく少年と少女の淡い恋の物語が主軸になっています。

主人公は郁という女性。少年の母親です。
彼女は教育こそ受けていないけれど、気丈でやさしく、ほんとうの知性を備えた女性です。『天の曳航』の知恵さんと同様に私には郁さんもまた大好きな理想の女性の一人です。
 

『水の匂い』は戦後のまだ混乱のつづく日本の田舎での出来事を綴っています。あの頃はたくさんの人が国内を放ろうしていました。今では不思議な光景なのですが、私のいた海辺の小さな村にもあちこちからいろいろな人が流れてきました。

そのまま住み着いた人はまれで、いつの間にかまた姿を消していました。食べるために、仕事とすみかを探して放浪していたのだと、今は分かります。

そんな中、刃物を研ぐことで生活の糧を得ていた老人のことを私は大人になっても忘れることができませんでした。彼は神社の軒下で暮らしていました。粉ミルクの空き缶を鍋代わりに境内の隅で煮炊きをしていました。

「人はこうしても生きていけるんだよ」と彼は私に言いました。その言葉を聞いたとき、9才だった私は子供なりにショックを受けました。人が生きるということはどんなことなのか、それ以来、私なりに思いを巡らせるようになりました。

村では誰も彼を追い払おうともせず、ご飯を振る舞ったり、彼のために包丁だのハサミだの出してきて研いでもらっていました。しかし、いつの間にか彼は稼いだお金で酒を買うようになり、酔って道ばたに転がっている姿を見かけるようになりました。そして、それからしばらくして彼は村から姿を消しました。

いなくなった彼のことを私はずっと忘れませんでした。何かとても大事なことを私に告げてくれた最初の先生だった気がしました。それは生きることの原点についてでした。

それが『水の匂い』のテーマになっています。

 

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夏の記憶