出版社:講談社
これは私の初めての書き下ろしでした。実際に起きた事件を題材にした唯一の作品でもあります。
ちょうど私自身が子育て中に起きた母子心中未遂事件。
その女性は田舎から出てきて何も分からないまま大工の見習いの男性と同棲、結婚。
夫は賭け事や女にうつつをぬかし、家にはお金を入れなくなっていたと新聞に書かれていました。
3人目の子供を身ごもったものの夫は家に寄りつかず、堕胎するお金もなく、幼児をかかえて働くところもないという状態の中で、彼女は追い詰められ、生きることにも疲れ果ててアパートに灯油を撒き、当時確か4才と2才の子供を道連れに焼身自殺を図ったのです。
彼女が住んでいたアパートはたまたま私のところから近く、夜空を焦がして燃えさかる炎が近々と見えました。私の子供たちはサイレンの音におびえて私にしがみついていました。
そのとき、同じように幼い子供を持つ母として、彼女の身に起きたことをとても他人ごととは思えず、私は激しいショックを受けました。都会で孤立した母と子、その絶望の深さを思いました。
子供を預けて働きたくても1975年当時は託児所がほとんどありませんでした。
私設の託児所は一人預けるとしたら、一ヶ月10万円(事務職の人の一ヶ月分の給料とほぼ同額)という高額。頼りにしている夫も帰ってこず、収入も断たれた彼女には相談する相手もいませんでした。
火事に気づいた向かいの酒屋の店主がドアを蹴破って入り、入り口にしゃがみ込んでいた母親だけは引きずり出したものの、二人の子供は火に巻かれて焼死。彼女は管轄区域の刑務所で中絶手術を受け、裁判の後、栃木刑務所に送られました。しかし、夫は無罪放免。
私はどこにぶつけようもない腹立たしさとその母子への痛ましい思いを抱きながら10年の間、この事件について考え続けました。そしてようやく事件から10年後、小説として書く決心をしたのです。
書き終わったときは心身ともに疲労困憊、虚脱状態に陥りました。それくらいに主人公と私は同化していました。
小説を読んだ何人かの人に
「子供を殺すくらいなら、生活保護を受ける手段もあったはずだろう。同情はできない」
と言われたことを思い出します。そう言ったのはほとんどが男性でした。
しかし、一方で 故
当時、生活保護を受けようとすると、役所でどれだけの屈辱に耐えなくてはならなかったか、一般には知られていません。
ましてや田舎から出て来た20才そこそこの女の子にとって、陰険な尋問に耐えて生活保護を勝ち取ることはとうていできることではなかったと思います。
しかも役所までは幼い子供を二人つれてバスを乗り継いで行かなくてはならない距離。気力の萎えた彼女にはそんな役所に通い詰めて屈辱的な言葉に耐え抜く気力も体力もなかっただろうと思います。
今もまだ彼女への思いはずっと私の胸にとどまり続けています。実際に会えたとしてもかける言葉など思いつくはずもないのですが、もし会えたなら伝えたいことばはたったひとつしかありません。
「あなたは私です。あなたは一人ではない」と。