2018/10/28
インド-52歳のバックパッカー

インド 旅行 地図1

【『明恵みょうえ 栂尾高山寺秘話とがのおこうざんじひわ』を書き上げるまで】インド-52歳のバックパッカー

これも天の配剤かと思うのは、52歳の時、突然、どうしてもインドに行きたいという衝動が起き、抑えきれなくなりました。なぜかインドに行かねばならない、と思ったのです。ひとつには長女も大学院に進み、次女も大学入学を果たしていました。

ようやく自分の時間がやってきた、という思いがありました。

でも、行きたいのはヨーロッパでもアメリカでもなく、なぜかインドでした。

それでもインドに行くならただの観光旅行ではつまらない、行くならバックパッカーでひとり歩かなければつまらない、とこれも漠然と思いました。バックパックは20キロ近くあります。それにそれを担いでまだ一度も行ったことのない国を歩きまわるのです。

52歳の私は体力に自信がありませんでした。

それで私が最初に取った行動はジムに行くことでした。半年間の予定でそこで筋トレを始めました。履いていく靴に慣れるため1日4キロから5キロ歩きました。主治医に抗生物質をたくさん処方してもらい、治療師の先生が教えてくださったサバイバル用の水の浄化装置一式を購入しました。
 

当時のインドはまだ今ほど経済発展を遂げていず、水はとくに問題がありました。それに伝え聞く情報はかなりヤバイことばかりでした。盗難、毒入り紅茶、法外な要求をしてくるタクシー、などなど。怖い話ばかりでした。

『インドの歩き方』を購入し、隅から隅までしっかりと読みました。行きたいところを決め、旅行会社に行きました。それでも怖くて友達に最初だけでも一緒に行ってくれないかと相談しました。

「いいよ」と彼女はいとも簡単に承諾してくれました。まずデリーにホテルを取り、ガイドを予約しました。二人の計画ではインドに亡命中のダライ・ラマ十四世に会うため、ダラムサラまで行くことが第一でした。

ダラムサラはヒマラヤの裾、標高2500メートルに位置し、チベットの亡命政府があるところです。デリーからは車やバスで14、5時間かかります。

ダライ・ラマ法王事務所が新宿にあり、その頃、チベットに起きた悲劇とそれに対する法王の考え方に感銘を受けた私は、度々事務所を訪ねていました。チベットの方の助言でチベットのお正月である2月4日にダラムサラを訪ねる、ということになりました。

インド航空でデリーに行き、あらかじめ予約していたホテルに落ち着きました。立派なホテルで、庭でとる朝食もなかなか素敵なものでしたが、なんだかイギリス統治時代の植民地的な空気で私は落ち着きませんでした。第一、よほどのお金持ちでなければ泊まることのできない高級ホテルで、働いているのはインド人、客は私たちをのぞいてみんな白人でした。

どこのホテルだろうといろいろな客はいるものですが、私は居心地の悪さを感じていました。たぶん私が日本人だからでしょう。客が横柄な口調でなにやかや注文している感じがいやだったのです。お互いにありがとう、といったものとは明らかにちがった空気でした。
 

デリーを朝5時に出て、ダラムサラに着いたときはもう夜でした。停電でホテルは真っ暗。宿には暖房もなく、シャワーも水しか出ません。ろうそくの灯りでチベットの焼きそばを食べました。

標高2500メートル、2月初旬でしたから、ただでさえ寒いのです。眠ろうとしても寒さで眠れません。帽子にマフラー、靴下三枚、ありったけのものを着込んでようやく眠りました。

ダラムサラは泥道に沿って外国人のための小さな宿が並んでいる田舎町でした。ダライ・ラマ詣でというか、ダラムサラに興味を持つ外国人が多くいました。お正月はそれでもインド各地からもダライ・ラマの説法を聞くためにたくさんのチベット人が集まってきます。

その夜、まことに圧巻だったのは、ツクラカン寺で演奏される長さが1メートル以上あるラッドン、つまりチベタン・ホルンの音色でした。宇宙の星々に向かって呼びかけている、としか思えない、ほんとうに深く豊かな音色、心揺さぶられる見事な音楽でした。
 

それにチベット人の方々はみんな気が良くてとても親切でした。朝4時、法王の説法が始まるまで簡単な英語でおしゃべりです。中国の侵略を受けて他国に亡命した人々。親が殺されたり、投獄された後に残された子供達もやがてヒマラヤを越えてネパールやインドに逃れてきます。そしてダライ・ラマの手元で大切に育てられるのです。

その子達の世話をしているチベット人学校にも行きました。文房具とわずかな寄付金を持って行きました。子供達は明るく、よく笑い、健康でした。宿舎は清潔で整頓され、すべてに世話が行き届いています。
 

ダラムサラを訪問した後、友達は日本に戻りました。私はひとり残り、コルカタに移動しました。コルカタからなんとなくブッダガヤ(ボッドガヤ)に行きたいと思ったからです。深夜特急で7時間。寝台車を予約し、コルカタのハウラー駅で待ちました。

面白いというか困ったのは、自分が乗る車両と席は汽車が到着する30分前にならないとわからないということでした。ハウラー駅の売店でお茶とチャパティ(インドのパン)を買い、バックパックを担いだまま5時間待ちました。インドの列車は決して時間通りには来ません。5時間待つなんて特に珍しいことでもありません。インドは亜大陸あたいりくと呼ばれるくらいに広いのです。その上、時間についてはさほど厳格ではありません。
 

むしろ、東京でのこと、中央線が3分ほど遅れて到着することを詫びる場内放送の方がどちらかというと違和感があるかもしれません。いつぞやは50秒遅れのお詫び。驚きました。
 

その当時(1997年頃)、ハウラー駅の周りには一説には約20,000人という家のない人たちが棲み着いていました。黒っぽいテントや窓もない小屋がひしめき合っていました。駅の中は子供達の遊び場でした。みんな泥だらけの破れたシャツ、汚れた細い手足、目は世界一美しい漆黒、マツゲが長くて全員が未来のイケメン揃い。物乞いもしません。ひたすら石蹴りに興じていました。

で、ようやく列車が到着する30分前になり、予約番号と席を知らせる手書きの張り紙が出されました。ただ、その表の約束事がわからないので、自分の席もわかりません。予約の切符を見ても何もわからず、近くにいた男性に「すみません、私の席はどこなんでしょう」と尋ねると、すぐに見つけ出してくれました。「ここだよ」
 

ようやくボンベイ(今はムンバイ)特急に乗り込み、検札に来た車掌さんに「ガヤ(ガヤー)に着く20分前に起こしてくれますか」と頼んで、後は死んだように眠り込んでしまいました。

日本にいると不眠症の私がインドにいる間はとてもよく眠りました。ガタゴト揺れ続ける特急の中は決してきれいでも清潔でもないのですが、汚れた毛布にくるまってすぐにぐっすり眠り込んでしまいます。なぜインドでは眠れたのか、その理由はいまだ不明です。

ガヤに着いたのは午前4時、まだ真っ暗でした。ホームは毛布一枚にくるまった人々で埋め尽くされていました。泊まるところがないのか、列車待ち時間があまりに長いので寝て待っているのかわかりません。人を踏まないように用心しながら、私は外に出ました。

・・・で、絶句。棒立ち。なぜなら何百人というリクシャワーラー(リキシャワーラー)が自分の自転車式人力車を引いて大声で喚きながら押し寄せてきたからです。とっさに私は辺りを見回し、灯りのついているゲストハウスの中に逃げ込みました。

いったいこれは何が起きているのか、チャイを頼んでから考えました。そこへ老人が近づいてきました。話の感じではどうやらリクシャワーラーを仕切っている人のようでした。

「私がいいリクシャワーラーを紹介するよ」と言うのでついて行きました。

なんという姿の人だろうと、そのリクシャワーラーを見て思いました。もう一年も二年もお風呂に入っていない、ましてや髪を洗ったこともない、靴は履いたことがなく、ご飯もずいぶん前になんか食べただけでしばらく何も食べていない、服はもらって以来一度も洗濯したことはない、といった感じで目ばかりがギョロギョロしている・・・。

でも、ほかに選択肢はなさそうなので、料金の話し合いがついてから私はそのリクシャに乗り込みました。ガヤからブッダガヤまで16キロの距離です。朝靄の中を彼は裸足で走り出しました。振り返りざま、「つかまれ」(たぶん)と怒鳴りました。悪路のため、リクシャが異様に揺れるのです。確かに掴まっていないと振り落とされそうでした。
 

インド 旅行 地図2
 

やがて日が昇り、山の稜線が金色に輝き始めました。なんと小高い山々は仏陀の涅槃像ねはんぞうそのままの形をしていました。太陽はちょうどその胸の辺りから昇りました。リクシャワーラーが自転車を止め、何か叫んでいます。「見ろ、すごいね」とでも言っていたのだと思います。

私も「すごい、すごい」と叫びました。リクシャワーラーは初めてにっと笑いました。そして、満足したかのように再びリクシャを引いて走り出しました。

ネーランジャ河(ネーランジャラー河。現在のファルグ川)にそって進みました。朝霧が太陽の光に染められ、田園地帯は美しいたたずまいを見せていました。1時間ほどでブッダガヤに着きました。ホテルを何軒か見て回り、中でも値段は少々張るかもしれないと思いつつ、きれいなホテルを見つけ、交渉しました。

宿も決まり、私はリクシャワーラーに約束のお金を渡し、それから100ルピーを「これはあなたにあげる。だからポケットにいれておくのよ」と言いました。英語はわからないけれど彼もなんとなく私の言っていることが理解できたらしく、あらためてにっこり笑い、手を合わせました。ハウラー駅で買ったチャパティは食べずにバッグに入れたままでした。

「これあげる。あなたの朝ご飯」そう言うと、彼はまたにっこりしました。

そんなことで、なんとはない幸せな気持ちで私のブッダガヤ滞在が始まりました。
 
 
その日から私はホテルに紹介してもらったガイドのインド人シャルマさんとジープを雇い、お釈迦様が城を出られた後、悟りを開くために半年間の断食に入られたという前正覚山ぜんしょうがくさんを目指しました。そこには洞窟があり、中にはたくさんのろうそくが灯されていました。

世界中から仏教徒が集まってくる聖地です。洞窟を出ると出てすぐそばの岩の上で瞑想をしていたタイのお坊様が瞑想を終えて立ち上がったところでした。

シャルマさんが「あなたは瞑想者でしょう。どうぞ、僕たちに遠慮なく瞑想なさってください」と親切に言ってくれました。事実、その頃の私は毎朝夕、瞑想をやっていました。

やはり場の力というのはあるのかもしれません。いつになく深い瞑想でした。そしてその静寂の中で私は声を聞いたのです。その声は若々しい男性のもので非常に明瞭なものでした。声は言いました。

「幸福でありなさい。幸福の向こうにしか宇宙の真理はないのだから」

瞑想が終わって、私は考え込んでしまいました。たいていの場合、人は幸福でありたいと思います。でも、あらためて幸福でありなさい、と言われると、いったいほんとうの幸福ってどんなことを言うのだろう、と思ってしまったのです。
 

ある刹那、「ああ、幸せ!」などと私たちは言ったり、思ったりします。でも、あの声が言ったのはそんな単純なことではなさそうでした。つまり「宇宙の真理と繋がる幸福」なのです。以来、私はずっとそのことを考え続けました。で、今も答えは得られていません。

もしかして、こんなことが幸福というものかもしれない、と思うのは、安全な国で日々の食事に恵まれ、水道からはいつもきれいな水が出てくるし、冬は体を温めるストーブがあり、今日一日を生きたように、明日もまたやってくることが当たり前のように穏やかな眠りにつくことができる。それを自覚したとき、すべては幸福だと思える・・・。そんなことでしかありません。
 

インド 旅行 地図3
 

インドではシャルマさんの案内にしたがって、実は仏陀がルンビニ(ルンビニー)を出た直後に修行をされていたという荒野にも行きました。御影石みかげいしの巨岩が折り重なり合う不思議な場所でした。ひとつの御影石の中に十畳ほどの四角い部屋が切り抜かれ、瞑想室になっています。ひとつだけある入り口の戸を閉ざすといっさいの光が遮断され、真の闇に包まれます。一切の音も消えます。聞こえるのは自分の呼吸音だけです。

その無音と闇のなかで瞑想者は自らの心の内の声を聞き、内なる旅をします。全くの闇、そして無音というのは想像以上に怖いものです。死の恐怖が突然襲いかかってきたり、理由もなく不安が膨らんだり、数日もすれば狂気じみた幻覚に襲われたり、幻影が現れたりといったことが始まります。

訓練を受けた人でなければここでの瞑想は不可能です。
 

外は岩が焼けて気温は春でも昼間は50度を超します。焼け付くような石の上を歩きながら、私は腹痛に襲われていました。コルカタで食べたものがよくなかったのです。数日間、日本から持ってきた薬を飲み、水分は取りましたが、食事は摂りませんでした。実は水を飲んだだけでも胃がこむら返りでも起こしたように痛むのですが、ずっと我慢していました。

しかし、不思議なもので、その岩山の上で灼熱の太陽の下、痛みに耐えているとき、あることが心に浮かんだのです。「お釈迦様はこのような荒れ野で木の根、草の根を食べながら苦行に身を投じ、人が真に幸福に至る道を探そうとされたのだ」と。

ふいに涙があふれました。人の幸福を願う、我が身を犠牲にしても人が幸福になる方法を探し出そうとした、そんな方がほんとうにいらしたのだ、と気づいた瞬間、いつしか私の激しい腹痛が消えていたのです。

それは、今もって不思議な体験だったとしか言いようがありません。
 

それから私はお釈迦様の生誕地ルンビニ、入寂にゅうじゃくされたクシナーガル(現在のクシナガラ)、祇園精舎ぎおんしょうじゃなどその遺跡を巡ることになりました。

仏教文化の花が咲き満ちたと言われるマガダ国も訪れました。

18世紀、マガダ国はイスラム教徒の襲撃を受けて滅びました。ガンダーラの美しい仏像群は偶像崇拝を嫌うイスラム教徒により破壊されました。首を落とされ、鼻を削がれた仏像が今も博物館に保存されています。

寺院は焼きレンガを積み重ねて造られたストゥパ(ストゥーパ)と言われる巨大な丸い建造物ですが、それが今もまだわずかに遺されていますが、辺りはまさに荒涼たる風景です。

イスラム教徒に滅ぼされたマガダ国、時代はちょうど明恵がインドへ行こうとしていた時期と重なります。明恵のインド渡航を止めたのは春日明神だと言われていますが、明恵がたとえマガダ国に辿り着いていたとしても、そこにはもうマガダ国は存在していなかったのです。
 

後に明恵の物語を書く上でこのときの体験は、非常に意味のあるものでしたが、その当時の私はいずれ明恵の物語を書くことになるなどとは思ってもいませんでした。

インドに行った当初、まさかお釈迦様の遺跡を巡る旅になるなどとは思ってもいなかった私がシャルマさんの案内で行くことになった・・・。それには実は深遠な意味が隠されていたなどと、そのときの私が知るはずもありません。

でも、それから数年後、私はとうとう明恵の物語を書きたいと苦闘を繰り返すことになります。

ただ、今は思います。
天はそこに人間の明確な意志があるとき、密かにその意志を汲み取って、きちんと準備をさせてくださっているのだ、と。
 

かくして明恵を書くために費やした年月は20年ということになります。天の意志と配剤、それも後々知ることになるだけで、書き始めた私にはなんら啓示も与えられず、ワケも知らされません。こちらがわかるのは書くしかないこと、それしか先に進みようがない、そんな状況に置かれてしまった、それだけのように思います。

2018/10/28 高瀬千図拝

 

【『明恵 栂尾高山寺秘話』を書き上げるまで】
1.書き始めの頃のこと
2.インド-52歳のバックパッカー(このページです)

 

 

2018/10/28
インド-52歳のバックパッカー
」への1件のフィードバック

  1. 「龍になった女」を読み、高瀬さんを検索してこちらを今日はじめて拝見しました。

    なりゆきで会社を経営する立場にあり、いくら人のためと思って行動しても、ひどいダメージを社員から受けてしまいます。

    今日もそんな日でした。

    相談する相手(と思ってた人から怒りをぶつけられ)もなく、気を紛らわせるために必死で逃げ場を探し、この記事を読みました。

    まだ頭がガンガンしますが、お釈迦様の修業時代を考えたらがんばれそうです!

    「幸せでありなさい」と聞こえた声は、たった今の、わたしに、おすそわけしてくださるためのメッセージだったと、勝手に思わせていただきます(笑)

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