毎年のことですが、冬が近くなるとたくさん薪を買い込んだり、雪に閉ざされる季節に身構えたり、ある種の緊張感に襲われます。車はスリップするし、また雪掻きや薪運びはそれなりに重労働で、老女の一人暮らしにはつらいものがあるのも事実です。
それだけが原因ではないのですが、冬枯れていく季節、曇り空を見上げてはなんとなく心細い感覚に襲われたりした時、思い出す言葉があります。大好きな言葉なので、お知らせしますね。
スッタニパータという仏陀の言葉として伝えられているもので、日本では『犀角経』と呼ばれています。「寒さと暑さと、飢えと渇きと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、――これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め」(中村元訳 岩波文庫)
この言葉を思い出すと、どんな時でも私は正気に返る心地になります。初見は、「インドの歩き方」というガイドブックでした。その本にはインドは恐い国(その当時はとくに)だと思っても仕方のない内容が満載されていました。感染症、マラリア、麻薬、毒入り紅茶、泥棒・・・等々。
それでも私はなぜかインドに行きたかったのです。案の定、コルカタに辿り着いたときにはすでに日本を発って一ヶ月が過ぎ、正直、精も根も尽き果てていました。無理もありません。52才のバックパッカーでしたし、食事も水も体に合わなかったし、つねにお金の交渉がつきまとっていたのですから・・・。
ハウラー駅に行こうとして、タクシーに乗ったときでした。運転手は途中でタクシーを止め、私に法外な金額を要求してきました。またか・・・と思いつつ、女の一人旅、私は言われるままにお金を払い、そしてその時の私はなぜかもう一枚お札を取って、「これは神さまからね」と言って渡していたのです。
疲れも極限にきていた私はもう自分を守ろうとする気すらなくなっていたのです。でも、その瞬間、インドの空気が一変しました。いきなりインドの心のドアが開いたような、そんな感じでした。
運転手はすっかり別人のように顔が変わっていました。そして私に手を合わせて「神のご加護があるように」と言ったのです。それからはどこに行こうと歓迎され、家に招かれ、インドを発つ日には見事なバラの花束までいただいたのでした。
何が起きていたのか・・・。結果として言えることですが、恐怖を手放したこと、防衛するのを止めて、流れのままにすべてをゆだねたこと、そんなことが理由だったのではないかと思います
「寒さと暑さと飢えと渇きと・・・これらすべてのものにうち勝って犀の角のように独り歩め」という言葉の本質はそのことと無縁ではない気がします。何ものにも依存せず、逃げることをせず、独りすっくと立って、現実を見据え、己を信じてまっすぐに歩け、という。
この言葉は以来ずっと私の中にあり、思い出すたびに、弱くなった心にいつも清新な気持ちのいい風を送り込んでくれています。試しにそっと口ずさんでみてください。勇気が湧いてきます。
2010/02/05 高瀬千図拝