2010/09
人が生きていく上で最も怖いこと

ここ八ヶ岳ではもう紅葉が始まっています。このところの習慣で毎朝5時過ぎに目覚め、散歩に出かけます。家の裏の池では鴨のヒナが孵り、泳ぎはじめました。今年は10羽、みんな無事に育ってくれるよう祈りつつ、毎日楽しみに眺めています。

このところ、人が生きていくうえで最も怖いことは何だろうと、考えています。そこで気づいたことのひとつに「私は分かっている」という意識があります。「私は分かっている、だから今さら何を学ぶ必要があるだろう」という意識です。

実は私自身、14才のとき、そう思ってしまいました。「人生とは、どう生きたところで生老病死。それ以外にはない」と。中学生がそんなことを考えるだろうかとお思いの方もあるかもしれませんが、心理学的には人は13才から14才くらいまでに人生を一巡する、人生のひとつの周期が終わると言われています。つまり簡単に言えば、そこですでに一生を生きたように思ってしまうのです。

生きているのが苦しくて仕方のなかった私は死ぬ決心をしました。これ以上この苦しみに満ちた人生を生きていく自信も勇気もなかったからです。そう考えるようになった原因はいくつかあります。家庭的にあまり幸せではなかったこと、両親の諍いに怯え、ましてや自分が愛されているという感覚がないまま成長したことなど。それに胎内被爆の後遺症もあり、病弱で内向的、過敏な子供でした。

でも、死のうと思っても死ねませんでした。『私』は死にたがっていても、私の『命』は死にたがっていなかったのです。それから数十年、悩み苦しみながら生きてみた結果、分かったことがひとつあります。それは「私は自分について、またこの人生についてまだ何も分かっていなかった」ということでした。

「分かっている、私は知っている、というのは知性ではない。知性とは、私には何が分かっていないのかを発見することだ」と言ったのはクリシュナムルティです。

その点、少し成長したのかもしれません。確かにそのとおりで、もし私が「私は分かっている」と思ったら、そこでもう進化と成長の道は閉ざされてしまいます。「私は分かっている」と思うことは、単に私の心の鈍さであり、無意識の逃避であり、無知であって、イソップのカエルのお父さんと同じことでしかないからです。自分の知っている世界が世界のすべてだとカエルのお父さんは思っていたのですから。

分かっていると思いこんでいた自分の滑稽さに気づくと、視界が開けてきます。なんというか、そこには虚栄心も見栄もなく、ただ素直に心を開いた私がいるからだろうと思います。この年齢になってますます「人間の心」は、ほんとうに不思議で、すばらしくて、広大で、謎に満ちたワンダーランドだと思うようになりました。この世界への冒険に出かけていくときの乗り物は「私の心、感情」です。

心を与えられたこと、豊かな感情を持っていること、これは苦しみや悲しみも含めて、神様が人間に与えてくださった恩寵だったのだとこのごろ思います。そのことが腑に落ちると、いかに痛みを伴おうとも、心の悩みや苦しみはその範疇を越えて、自己探求と発見のためのとても大事な宝物になります。

2010/09/06 高瀬千図拝

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