2012/03
人の美醜について考える

最近、空を見上げていて春が近くなると光そのものが変わることに気づきました。秋から冬に向かうときと春に向かうときと、明らかに光が違うのです。春の空はその奥にさらに光をひそませているかのように淡くそして深い輝きを放っています。秋の空にはこれがありません。

まだ雪が残るここ八ヶ岳でも、春が近づくにつれて光が変わり、それに気づいたかのように鳥たちの声が変わります。同じさえずりでもその声にははしゃぐような華やぎが加わるのです。動きも機敏になります。こちらの心をただ映しているだけなのかもしれませんが、なんだかとても嬉しそうなのです。

 

美しい羽を持つアトリやアカゲラ、カケス、ゴジュウカラにシジュウカラ。そんな小鳥たちがベランダにやってくるとついうっとりと見とれてしまいます。ところがカラスやヒヨドリがやってきてもあまり嬉しくありません。美しくないからです。

カラスなどその黒い羽のせいで不吉な鳥のように見えてしまいます。今まで我が家の庭に降りてきたことはありませんが、もしそうなったら「ああ、早く帰ってくれればいいのに」と思うにちがいないのです。

でも、これはカラスのせいではありません。その鳥が美しいか醜いかは私たち人間の判断であり、偏見にすぎないと思うからです。

 

それにしても近頃、人の美醜について考えます。人の美しさは実は顔形や肌の色や表面的なこととは関係がないのではないかと思うのです。

造形的にはたしかに美人であっても、その心の中がエゴでいっぱいで、嘘をついたり自己正当化に明け暮れたり陰で人を非難中傷していると、いかにお化粧が上手でも、また着飾ったところでしだいにその相貌は醜いものになっていきます。

しかし、反対にその人が思いやりや繊細さややさしさを持っていて誰に対してもさりげない気遣いをする、自分自身を知っていて謙虚さがあり、なんに対しても感謝する気持ちを忘れないでいるような心の持ち主であれば、老いていくにもかかわらず年を重ねるにつれてその相貌には気品がそなわり、とても美しいと感じさせるような変化を見せます。

顔はその内面、心がすけてみえるところだからです。

 

あるとき85才になるという女性と食事をする機会がありました。著名な映画監督の未亡人でしたが、食事の間中、私は彼女から目が離せませんでした。

彼女に

「どうしてそんなにまじまじとご覧になるの?」

と聞かれてようやく私は我に返りました。

「ごめんなさい。
あまりにおきれいなので、何が○○さんをこんなに美しくしているのだろうと、そのわけが知りたくて目が離せなかったのです」

と私は失礼を詫びつつ言いました。

 

その方のやさしさ、その眼差しの繊細さと明るさ、素直で生き生きした感じ、人を思いやる心遣い、謙虚さ、品格、これらのものが混じり合って、その方を素晴らしく美しく見せていたのではないかと思います。

これは

『人は心のあり方次第でいかようにも変われる』

というひとつの証明かもしれません。内面が変われば人はその相貌まで変わる、素敵なことではないかと思います。

2012/03/06 高瀬千図拝

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