2017/04
奇跡的とも言える幸福

小梨

写真は小梨の木、桜に似たたくさんの花を咲かせます。咲くのは決まって5月20日前後。

森に自生していて、我が家の庭には5本ほど幼木がありました。それがここに住むようになって16年、気が付かないうちに結構な大木になっていました。

木を覆い尽くすほどの花房は美しくて、肥料を与えたわけでもなく、誰が植えたわけでもないのに、成長し、ある日、輝くばかりの姿をみせてくれます。

いつか読んだクリシュナムルティの本に「私たちはどうして野に咲く花のように生きられないのだろうか」という言葉がありました。日々、ただひたむきに生きることの美しさを語っているのでしょう。

しかし、ニュースを賑わすのは、未だに役人の天下り、汚職や政治家の収賄事件。忌まわしい性犯罪。これも政治家の場合、本人のせいばかりでなく、互いの社会的立場が絡み合って、そのしがらみから、やりたくなくてもやってしまう羽目に陥ることもあるのでしょう。でも、その人自身の心に欲がなければ起きるはずのない事件ばかりです。

「野辺に咲く一輪の花のように生きる」には最も遠い場所にいる人達かもしれないという点では、むしろかわいそうに思えてなりません。

毎日、日が昇り、ときに雨が降り、春にもなれば山も野も緑に埋め尽くされるこの美しく、自然豊かな、戦争のない安全な国に住んでいるだけで、どれほど幸せなことか。

生きるために必要な物資も十分あって、水道をひねればきれいな飲料水がいくらでも出てくる、ここでは当たり前のことが、往々にして実はほんとうに奇跡的とも言える幸福であることに私たちはあまり気づきません。欲望にはきりがないからでしょう。

足ることを知る、それだけで人生は違った様相を見せるようになります。そこにあるものに気づくだけで、心は豊かになります。

貧しいのは心であって、現実ではないということ。

むしろ何もかも与えられてしまうと人はものを考えなくなり、ないものねだりをするようになってしまいます。

二人の娘をともかく本人たちの望むように生きさせてやりたいと心に決めていました。自分のことは二の次どころかあまり考えもしませんでした。書きたい題材さえあれば、私は書いているだけで幸せでしたし、食事も工夫をすればなんでもおいしく面白い料理ができあがります。

要は知恵さえあれば、人は豊かに生きられる、と思っていたからです。

とはいいつつ、女手ひとつで二人の娘に好きな勉強をやりたいだけやらせる、というのは口でいうほどかんたんではありませんでした。ときに車で仕事に向かいながら一人で泣きました。疲れ果てていたのです。

それでも長女が朝4時にガソリンスタンドで働き、その貯めたお金で新しいパソコンを買ったと知ったときは、正直、ついもう少しゆとりがあれば、と胸が痛くなりました。

「ごめんね」と言った私に「ううん、最初に一台買ってもらったら、あれより高度なものが必要だとわかったから、私のミスなの」と長女は答えました。

いまでも私へのプレゼントは豪華なのに、自分たちのものはなにも買おうとしません。倹約癖は生まれつきのものでもないと思うのですが、必要以上に物を持とうとはしません。次女は私のお下がりを平然と着ています。親としては娘たちにはもっとおしゃれをしてほしいのですが、これこそが贅沢というものかもしれませんね・・・。

2017/4/6 高瀬千図拝

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