さる5月28日、20年一緒に暮らした猫のプージャが亡くなりました。老衰でした。
最後の一週間、もう何も食べられなくなって、それでもかつて元気だった頃のように庭に降りたがり、草の上に寝そべったり、歩いてみたり、小川を覗き込んだり、私の腕の中でう~んと伸びをして空を見上げたり、ほんとうに幸福そうにしていました。
多分神様の最後の贈り物、一種の脳内物質、快楽ホルモンのせいだったのかもしれません。
毎日抱っこしてベランダに出て、一緒に朝の庭を眺めて、そんなふうに最後の時間が静かに過ぎていきました。それは亡くなる前日まで続きました。
最後の日はもう動くことができず、終日私の腕の中にいました。
午後2時10分、二回ほど息を吸い、大きく一回吐いて、そして旅立っていきました。
少しも苦しむことなく・・・。
その夜は小さくなった冷たい体を抱いて眠りました。
翌日、庭に穴を掘り、埋葬しました。
傍らに黄色いバラを植えました。
そして、こんなに泣けるかと思うほど泣きました。
今もまだ夕方になるとどうしても泣いてしまいます。
我が家に来た頃はまだ子猫でした。
娘と猫を飼いたいね、と話していると、いささかサイキックな娘の友だちがいて、「ペットショップになんか行かなくていいよ。この家に来る子がいるから」と言いました。
大学通りを散歩している時、私はふとそのことを思い出し、『我が家に来ることになっている猫ちゃん、いるんだったら早くいらっしゃい』と心のなかでつぶやきました。
それから一週間後、その子はやってきました。
庭の真ん中に座って、私をじっと見つめて、「ニャア、ニャア」と鳴いたのです。私は戸を開けて、「あなたなの?」と言うと、その子は待ちかねたようにリビングに飛び込んできました。
どれだけの旅をして私のところに辿りついたのか、ガリガリに痩せていました。
でも、とてもきれいなかわいい顔をしていました。
日向の匂いのする子でした。
夜になると私を押しのけるように先に走って階段を上り、私のベッドの枕の横にちょこんと座って待っているのです。朝は私が目覚めるまでじっと私の顔を覗き込んでいました。
顔と顔の間は1mm。
私が目を開くまで、その距離でじっとしているのです。
目を開けたとたんうれしそうに胸に飛び乗ってきて・・・。
利口でいたずら好き、私も娘もたちまち夢中になりました。
プージャと名付けました。『神々への讃歌』という意味です。
それから20年、いろいろな試練を一緒に乗り越えてきました。
事故にあったのは5才の時、国立でのことです。
心無い人の仕掛けたトラバサミにかかり、深夜、自分で脚をちぎって帰ってきました。
三日間、徹夜で手当をしてくれたY先生、プージャも四回の手術に耐えました。
先生は訃報を聞いて泣き出しました。友達もみんな泣きました。
この子はどれほどたくさんの人々に愛されてきたのだろうと思いました。
私は遺体を花と白いリボンで飾りました。
離れて暮らす娘からは亡くなって10分後に電話がありました。
「さっき、旅立ったでしょう。それが分かったの。今は私のところに来てる。昔のまんま。今は脚があるのよ」言いながら娘は泣きました。
小児科の医師になって休みは月に一日だけ、激務に耐えていることが分かっていたので、「何があっても患者さん優先にしてね」と前々から言ってありました。
ヒューストンの娘も電話をかけてきました。「寂しいと思うけど、あまり泣かないで」と。
正直、もう一度、あの子が我が家にやってきた日に戻れたらと思います。
あの小さかったプージャ。大変なときも辛い時もいつもそばにいてくれました。
「こんなに家族が好きな子も珍しい」
と獣医さんに言われたことがあります。確かにどこにいても家族と一緒なら大丈夫でした。
今はただ静かにひとりプージャのことを思って過ごしています。
2017/06/06 高瀬千図拝