2017/07
私という誇り

今年はどうしたものか、ここ八ヶ岳周辺ではなかなか気温が上がりません。朝夕はストーブが必要なくらいです。一度降ったきり、曇天の空からは大した雨も降らず、農家は水の心配をしはじめています。

異常気象とは言うけれど、歴史を見る限り、まだまだ軽い方です。鎌倉時代の初期も大荒れだったようで、国民の三分の一が餓死したという記録もあります。とはいえ、この国は今のところ戦争もなく、物流もスムーズで水にも恵まれ、なんの不足もない時代。自由に他国への旅ができ、楽しむことができる。この国にとってたぶんこんなに平和で物に溢れた時代は有史以来初めてではないかと思います。

しかし、見えない所で、とても息苦しい世の中でもあります。自由に見えて、実は少しも自由ではない。この国の人々はこんなに自主規制が好きだったのか、と今更ながら驚きます。真の自律性を捨てて、社会の要求(という幻想)に従おうとする、いわば小心者の世界。そこへトドメのように共謀罪の成立。

 

20歳を過ぎたころ、私たちはようやく自分たちの生きている社会を相対化できる時期にきたのではないかと思いました。しかし、その深度は浅く、戦前と戦後くらいの範囲でしかありませんでした。

このところ、立て続けに渡辺京二さんの『無名の人生』や『近代の呪い』(平凡社)など読み続けていると、ようやくその理由と原因とが明らかになってきました。今の世の中がなぜこうも息苦しく、生きにくいのか、渡辺氏は『近世』と『近代・現代』を相対化することで明らかにしようとしています。

江戸期、それも幕末までは、この国の人々は国というシステムに支配されず、自らの仕事に誇りを持ち、自分の世界(コスモス)と価値観の中である種自律的で幸福な人生を送ることができた。明治以降、日本の知識人によって、身分制度が封建制度という間違った言葉に置き換えられたことで、かつて私達の国に存在した『私という誇り』はなかったも同然のことにされたのは事実です。

しかし、この国だけでなく、近代化という名のもとに世界で何が起きていたのか、世界はいつからこんなにも生きにくいものになってしまったのか、渡辺氏はひとつひとつ詳らかにしようとしています。感嘆に値する大変な作業なのですが、読んでいて、私は一行ごとに目が覚める心地がしています。

 

ただ、言えるのは、社会がどう変遷しようとも、マジョリティの価値観がいかに変わっていこうとも、私たちは心がイヤだと言うことはしない、という生き方を選ぶことはできます。正直に、嘘なく、自らの存在に誇りを持ち、『私』という小さな世界を『私というコスモス』まで広げ、自らを知るために生きる。それならできる気がします。

現代の息苦しさは単純化して言えば、金銭的な豊かさ、社会的地位や肩書、学歴などによって、その人の価値を判断するところから来ています。このような心の貧困はかつてこの国には存在しなかった、これこそが近代の産物なのだ、と渡辺氏は言います。

 

金銭的な豊かさはそのまま人生の豊かさにはつながりませんし、よしんば恵まれていたとしても人種的マイノリティにとって、女性にとって、差別はいまだ厳然として存在します。現在、平等といわれるものは制度的なもの、人工甘味料的なものであって、真実のものではありません。そもそも平等など初めから存在しないのですから。この偽善的な、または制度的な平等の皮を一枚剥ぐと、そこには未だ厳然として陰険で陰湿な男性社会、力に支配された社会という姿が現れます。

私たちにできることと言えば、自分の中の差別意識に気づき、それを根こそぎ捨てていく、心晴れやかに嘘なく生きるよう努力することしかありません。どんな未来が待っていようと、今のうちに自分の心を鍛え上げ、清廉な生き方を選ぶことは可能です。

 

『真の豊かさはその人間の感性の豊かさに比例する』

というのは世界がどう変わろうと普遍的な価値観のように思います。

2017/07/06 高瀬千図拝

 

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