2018/05/14
人事を尽くして天命を待つ

群生するスミレ

平成30年5月某日
昨日から庭の雑草取りを始めた。虫除けのついた帽子、手袋、膝当て、長靴と完全防備のつもりが、小さな虫が虫除けネットの隙間から入ってくる。それでも負けじと草取りを続けた結果、首やらおでこやら虫に刺されていた。彼ら、つまり虫はなぜかこちらの肌の弱いところを知っている。
 

雑草取りは実はクセになるほど楽しくて、草取り専用の道具で地べたに這いつくばって、小さな草を抜いていく。きりがない、そろそろ止めようと思いながら、また次の雑草に手が伸びる。

忘れな草とヒメジオンの芽は似ていて、よく見ないと見間違う。忘れな草にはもうたくさん蕾がついていて、それが一斉に咲き出すと庭が淡いブルーに染まる。

花の命は短い。その花の時を必死に楽しみ、味わい、必死に心に刻んで、また一年間、その時を待ちながら手入れを続ける。好きなことというのはそんなものかと思う。
 

友人の庭の桜が嵐で倒れ、桜救出作戦と称して、子供達と道具をそろえて出かけて行った。周囲を用心しながら掘ってみると、四本に伸びた根の二本が腐っていた。桜が倒れたのは強風が直接の原因だが、それよりずっと前に根が傷んでいたのだ。

木を起こして周りに杭を三本打ち込んで、綿ロープで固定した。根の下には腐葉土を敷き、根の周りに土を足し、水をたっぷり与えた。桜がまた命を吹き返すかどうかは来年の春を待つしかない。

「桜、助かるかな」と心配げな子供達。

「きっと助かるよ」と子供達のママ。

みんなでまっすぐに立った桜を見ながら、友だちが用意してくれたお菓子とお茶をいただいた。人事を尽くして天命を待つ、という大袈裟な言葉が頭に浮かんだ。

「来年の春まで待つしかないけど、時々見に来ようよ」と暮れていく空を見ながら私は言った。明日も見にいくつもりでいる。植物は人の足音で育つ、と誰かが書いていた。それを信じたい。

家に帰ってきたらすっかりくたくたに疲れていた。子供達が穴を掘り、石をどけて、私の言うとおりに杭を打ち込み、と私はただ指示していただけなのに、自分が作業をしたかのごとくに疲れていた。子供達のママも同様。「どうしてこんなに疲れたのかしら。何もしてないのに」
不思議。気を入れすぎたのかも。
 

植物と付き合うには植物の時間に合わせるしかない。待つ、ということを知るしかない。できるだけの手当をしたら、後は見守るしかない。

短気で瞬間湯沸かし器みたいな私には彼ら植物の時間が、なんだか中和剤みたいに感じられる。あのひたむきで静かで、時がいたると命の限りに咲き誇る。自らの美しさを知ることもないままに。
 

その点、雑草はあまり美しくないから雑草と言われるのだろうが、そんなことにはお構いなく彼らは根がとてもしっかりしている。繁殖力の強い植物ほど深く根を張る。少々抜いたくらいではビクともしない。

黄色いタンポポも外来種。この国の固有種のタンポポは中心が淡い黄色、花弁は白い。今はもう見ることもなくなった。どうして在来種はこうも繊細なのだろう、と時々思う。

その点、外来種は強いからこそ外来種として新たな土地に根を下ろしていくのだが、やはり在来種がだんだん見られなくなるのはなんとも寂しい。子供の頃、タンポポは白いと決まっていた。

大分前、江戸時代を舞台とする確か千姫が主人公の映画だったと思うが、馬で野を行く姫の周りに黄色いタンポポが地面を覆っていた。それはないはず。などと細かいところが気になった。江戸時代、タンポポは白いと決まっていたのだから。
 

2018/05/14 高瀬千図

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