なんだかあっという間に半年が過ぎてしまいました。とはいえ、時間はとても主観的で、その時の気分で長かったり短かったりします。楽しい時間は瞬く間に過ぎていき、苦しい時間はなかなか過ぎ去ってはくれません。時間というのは面白いものだと思います。
昔、天才物理学者デヴィッド・ボームとクリシュナムルティの対話を読んだことがあります。『時間の終焉』The Ending of Time(渡辺充訳 コスモス・ライブラリー刊)です。
この本の内容は難解で、まるで禅問答のようなのですが、『時』は『私』というエゴが生み出したのではないかという論議や『私』とは何かなど、日頃は考えもしない、当たり前のことが改めて考察されています。確かに人は思考によって存在するものだと私も思います。この本では思考の持つ深淵さについても哲学的な話が続きます。
「人間は考える葦である」と言ったのはフランスの哲学者パスカルですが、「我思う、ゆえに我あり」と言ったのはデカルト。それの新たな発展版と言えます。
ということは、やはり時々、私たちはちょっと足を止めて、自分について考えてみる時間を持つことは大事なことだということでしょう。
人の中にいて、外界からの情報に晒されていると、人は自分自身の姿をゆがめてしまうことがあります。一人になり、静かな環境に身を置き、自己洞察の時間を持つと、外界の情報で作られた自分というものが、自分の知る自分自身とはいささか異なっていることに気づいたりします。中にはその印象に従って期待される人間像を演じようとする場合も出てきます。
しかし、この世界で、実は自分をもっともよく知り、理解してくれる相手はやはり自分自身をおいて他にはありません。
たいていの場合、人は客観的な評価、経歴によって判断されますが、まことに味気ないことです。人というのは複雑な存在で外見や経歴ではとうてい理解されるものではないからです。
「私は誰?」という問いは、一度、足を止めてよくよく考えてみる必要のある大事なことのように思います。しかし、残念なことに、実はもっとも自分を批判する傾向が強いのも自分自身だったりします。そして、自己評価が低い人の場合、人間関係でも自分を批判したり、誤解したりといった相手を引き寄せます。
人間が思考によって自らの存在を認識するものであるなら、自分の思考によって作られた自画像を一度よくよく洞察してみることも大事ではないか、と思います。
他人の評価を当てにしないで、まずは自分が自分自身の大いなる理解者、味方でいることを再認識することが人生を幸福で豊かなものにしてくれるように思います。
それにはやはり偉大なる仏教者にして哲学者・空海の教えが役立ちます。『
実はこれが最強の生き方であり、最高の自分自身の愛し方だと空海は教えています。
20018/07/07 高瀬千図拝